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コンビニでアルコールを買って飲んだ女子高校生が、バイクを道路際に激突させて死亡した。小説家としてはこの少女が、どうしてアルコールを飲みたがるようになったのかについて、その裏に隠されている事情を何も知らないのだから、何とも言えない。私自身の体験としても、幼い時、若い頃には、生活上の悲しみをうまく処理できない。そんな時、私はたまたまアルコールには依存しなかったが、爪を噛むのがやまらなかった時期があった。それで私の爪は変形してしまった。 しかしその少女に酒を売った店の店員が処罰されたことには、ほんとうに非教育的なものを感じる。そして時代は実に大きく変わったものだと思う。 昔、泣きながら大酒飲みの父親のために酒屋に酒を買いに行く子は「孝子」であった。今は「孝子」を「たかこ」と読まれかねない。孝行な子供を指す孝子という単語は、私のワープロの漢字転換機能になかった。 酒屋の親父も薄々その事情を知っていた。僅かな金は、母親が着物を質に入れて得たものだろうとも推察されたし、その家では、本当は酒より米を買わねばならないのではないか、ということも察していた。だからこそ、酒屋の親父は黙って子供に酒を売り「気をつけて帰りな」と言ったのだ。当時の子供は、今の高校生よりはるかに人生の苦しみを知った大人であった。 今は、未成年なら孝子にも酒を売らなくなったのだ。 私は酒は料理に使うだけで、普段は付き合いの乾杯以外ほとんど飲まないが、それでも酒が悪いものだとは思ったこともない。酒を楽しく飲み、健康にも魂にもいいものとするか、それともさまざまな形で身を滅ぼすような飲み方をするかは、当人の問題である。未成年だから酒の飲み方が判らないなどということはない。バイクに乗る方が、酒を飲むよりずっと複雑な心理的知識的操作が要る。 包丁を売る人に責任をおしつけていいのか。包丁で料理をするのも、人を刺すのも、共に当人の責任で、刃物屋の判断することではない。そんなことを言っていたら、自動販売機はやがてすべてその存在を否定されるだろう。アルコール類が自由に買えるようにしておくのが悪い、というだけでなく、ジュースやコーラまで無制限に売るシステムを作ったから、うちの子供は糖尿病になったと訴えられるケースが今に出るだろう。 お父さんの代わりに酒を買いに行く子供があり得なくなれば、児童虐待もなくなり、児童の権利も保証されるという。しかしそれによって教育的な面は明らかに後退した。いつまでも過保護で、人のためには少しも働かず、すべての責任を他者に押しつける性癖を持った子供ができる。 それでもなお、現代は、自分が悪人になりさえしなければいいという判断を取る。大人も子供になったのだ。
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