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家庭は、心の休まるところでなくちゃ、という言葉をよく聞く。幼い時から、父が気難しい人だったので、うちでも緊張し続けだった私は、ことのほかこの言葉が好きで、そうだ、家庭では気楽でだらけていられなくちゃ、とその言葉をなぞるような気分になる。 しかしほんとうは少しニュアンスが違うらしい。家庭の中でも、決してしてはいけないこと、というのはあるというのだ。 たいていの妻は、私だけでなく、家ではボロを着て、お化粧っけもなく、髪もばらばら、時には鬼ババアのように見えたりする。起き抜けからきれいな人、というのもいないではないだろうが、美というものは、本来九十パーセントまでが人工的に磨き上げた努力の結果だから、自然のままの姿が人の感動を得るのはむずかしいことだ。素材としてのよさは、その人の持ち味の十パーセント分くらいの力しか発揮しないのではないかと思う。 四十歳を過ぎてから、遅まきに聖書の勉強を始めて、ほんとうにびっくりしたことがある。聖書の中にはパウロという人によって書かれた「コリントの信徒への手紙」が二通含まれているが、その第一の手紙の中の十三章四節からが、「愛とは何か」という最もむずかしい概念を規定した個所になる。 そこには愛の特徴の一つとして「礼を失せず」(コリント人への第一の手紙13・5)ということがある、と書かれているのである。 パウロは十二使徒ではないが、初代キリスト教会を作るのに最大の力となった人である。その人のこの言葉を読んだ時、私は自分が今まで家庭というものについて考えて来た「気楽さがいい」という思い込みは、全くの間違いなのだ、ということを思い知らされたのであった。 家庭内での不作法は、相手を深く傷つける。「あなたなんか会社でだって役立たずじゃないの」とか「妻子もろくに養えなくて何言ってるのよ」などという妻からの言葉もあるし、「お前みたいなブスが一人前の顔するな」とか「お前の一家は揃いも揃って頭が悪いからな」などと言われたという妻にも会ったことがある。 すべてこれらは「礼を失した」態度なのである。 親しき仲にも礼儀あり、というのは、友達同士の関係を言っているのだろうと昔は思っていたが、今では夫婦・親子の間で必要なことなのだ、と思うようになった。 私たちは多分一生、誰にも甘えて不作法をしてはいけないのである。そんなこと疲れるでしょう、と言う人もいるが、むしろきりっと気分を張り詰めて、配偶者にも成長した子供にも、立ち入りすぎた非礼をなさない、と決心する方が却って楽なのかもしれない。 こう思ってから後でも、私はまだしばしば礼を失しているのだが、酒を呑みすぎてべろべろに酔うのも、服装に無頓着なのも、愛がないことになる、という解釈は新鮮である。
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