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職場には、どこにでも命令系統というものがある。どの部署でも、どの仕事でも、指揮を取る人が決まっており、その下に命令通りに動く人がいる。 この命令系統は、別に指揮権を持つ人が人格的にも偉いということではない。これは仮の決まりである。 世間の多くの若者たちが誤解しているところだが、仕事の組織というものは、民主主義とは関係ないのだ。民主主義が適用されて当然なのは、雑多な目的を持つ不特定多数が集まった場合だけで、職場、家庭、スポーツのクラブ、研究の組織などには、それぞれの理由で民主主義はほとんど適用されない。 しかしもちろんすべてのこうした人の集まりには何よりも優しさと労(いたわ)りが要る。体の弱い人、子供たち、高齢者、その他の「落ち込んでいる人」に対しては、肉体的に疲れさせないように、その人が望んでいることはできるだけ叶えてあげるように、その人の才能を伸ばすように、考えるのが当然である。 しかし最近もっともおかしいのは、家庭でも、会社でも、研究所でも、皆が対等で、民主主義が実行されていなければならない、と考える人が結構いることだ。 家庭ではお父さんとお母さんが偉くていいのである。指揮権を取るのは年齢の上の人である。もちろん彼らがすべて正しいわけでも、間違った判断をしないわけではない。むしろすべての人は間違えるものだ。 しかしたいていのことは、高齢者が指揮権を取っていいのだ。前にも言ったように、これは一種の架空の社会的秩序だからである。 秩序というものはおかしなもので、常に仮説の上に組み立てられている。本質を考えたら秩序などできなくなるのだ。だから部族社会では、どうしてそうなるかという質問が出る前に、長上の命令が絶対的な力を持つ。 私たちの多くは、幼い時、大なり小なり親に困らされたものであった。親の命令は多くの場合、高圧的でピントはずれで子供の希望を打ち砕くようにさえ思えた。ほんとうに意味のないものもあったし、そうでないものもあった、というあたりが真実だろう。 しかし私たちは命令に従い、困らされ、不平を抱き、むしろその故にこそ社会と人間の真実を見抜く眼を養った。もっと普通の言葉で言うと、困らされたから見抜けるようになったのである。少なくとも私はそうだったし、こういう発見の方法もよくあるものだ。 最近の親たちが、民主主義を家庭内にも導入しようとして、子供のご機嫌を取ることで自分はものわかりのいい親だということを示そうとしているのを見ると、私は何よりも、子供がちょっと可哀想になる。それによって子供はどんなに才能や知性があっても、嫌なことに耐える力もできない。年長者を労って「まあ仕方がないや」と譲ることもできない幼児性から、いつまでも抜け出せないようになっているように見えるからである。
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