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スリランカの調査の途中立ち寄ったシンガポールのデパートで、空飛ぶ天使のようなクリスマスの飾りを見つけた。風にたなびいている羽衣は、すべて紙でできている。一個二千五百円ほどのもので、天使の顔もつましい家庭の主婦のような表情が素朴でよかったので、買うことにして店員さんに「どこの国で作られたものですか?」と尋ねた。 「フィリピンです」 と言われて、ああ、やっぱりと思った。 同じものを見たわけではない。が、私がどこかでこの手のものを見たことがある、と思ったのは、フィリピンで一時有名になったゴミ捨て場、スモーキー・マウンテンの近くの教会の祭壇であった。材料はすべてゴミ。廃材の切れっ端、ボロ、古新聞の類などをうまく使ったモダン・アートだった。そして十字架の上のイエスの像もまた、荒布のようなボロをまとっていたのである。 私がその時感動したのは、神はいつも苦しんで祈る私たちの直中にあり、決して光輝く教会の祭壇の上にお高く留まっておられるのではない、という解釈を、その祭壇は明らかに示していることだった。神は、私たちに天の高みに自力で登っておいでと言うのではなく、常に自分の方から私たちの方に降りて来る方であった。 スモーキー・マウンテンでは、一時、近くのスラムに住む子供たちが、臭気の激しいゴミの山を競争で漁って、その中から少しでも金目のものはないか、使えるものはないか、と必死になっていた。その頃、世界中から多くのカメラマンが入ってその姿を撮影したのである。あの頃、ゴミの山の一部は燃えていたから、子供たちもダイオキシンの脅威に晒されたわけだが、当時そんな知識は誰にもなかった。 私が見つけたクリスマスの天使はもちろん輸出用に作られているのだから、普通ならスモーキー・マウンテンの貧困を思わせるものは何もない。しかし造形の源泉は同じであることを、私はスモーキー・マウンテンの祭壇の前で祈ったことがあるから、わかるような気がしたのである。 たとえボロ布であろうと、それが神から与えられたものであるなら、胸を張って使って行こう、というスモーキー・マウンテンの信者たちの気持ちに私は共感する。たとえ人間的な欠点であろうと、マイナスの健康や才能であろうと、辛い境遇であろうと、それが個人に与えられたものならば、それを元に生きて行くのだ。それが私たちの出発点であり、それが生涯をかけたテーマとなり得るのである。もちろん政治や社会が、その人の苦しみを放っておいていいということではないが、政治や社会は個人の魂の「最後の最後」の地点まで救済をすることはできないのだ。それは個人に任されている。 政府から商品券が出るのかどうかわからないが、どこの技術でもすばらしいものは励ましの意味でも買わせてもらうことがいい。個人の消費などささやかなものではあるけれど。
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