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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 上海蟹を食べる  
コラム名: 私日記 第13回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2001/01  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年十月二日
 午前十時。日本財団で辞令交付。続いて今日は日本財団の創立記念日なので、永年勤続者を表彰する。短い挨拶。私など小説を書き続けて四十六年が過ぎて来たのだから、ただ時間だけで言うならたいていの人より長い。
 十一時少し前から、新社屋に関する会議、新しく設置する電光掲示板で何を表示するかについても、試案の説明を受ける。
 午後は南米の調査旅行に若い人々を快く出してくれた文部、農水、運輸、建設、厚生の各省に、お礼に行く。お土産は、若者たちの現場写真だけ。皆髭面でよれよれ。なかなか迫力がある。
 
十月三日
 午前午後で、日本財団にお客さま三組。
 十一時、執行理事会。二時、新社屋の内装入札に関する評議員会と理事会を続けて行う。この承認を受けて、すぐ入札の公示を出すのである。
 午後四時、定例記者懇談会。
 
十月四日
 朝、自宅から、在京ペルー大使館に直行。ペルー滞在中、本当に親身になっていろいろな調査のご配慮を頂いたことに関して、アリトミ大使にお礼を申しあげる。また、日本財団が旅費とお小遣いを負担いたしますから、差し当たりペルーの沿岸警備隊員の短期日本留学について海上保安庁との合意を得たことについてもご報告する。
 公的な話がすべて終わってから、小説家・曽野綾子に戻って、私たちがリマにいた頃、大統領の辞意表明のきっかけとなったモンテシノス氏が賄賂を授受した瞬間の隠し撮りの写真の存在について大統領と大使はすでにご存じだったのですか、と聞く。そのことを知っておられて、私たちの面倒を見てくださったのだとしたら、あまりにも穏やかな表情だと思ったのである。
 私たちがリマ空港を発ったのは現地時間九月十三日夜。大使もその夜半過ぎ、リマを発って日本に帰られ、その翌々日になって初めてそのことを知られた由。私たちの中でTBSニュースプラザ・キャスターの中村尚登さんは、もしかしたら特ダネを逃したのではなかろうか、と言っておられたというから、「特ダネは時間的に取れませんでした」と言ってあげようと思う。
 午後、中野の警察大学校で講演の後、教育改革国民会議の企画委員会。
 
十月五日
 午後から、江東区潮見にある日本カトリック会館で、南米で収録したフィルム五本の音を入れた。休まず一挙に五本分を収録。
 
十月六日
 夜、ひさしぶりに、亡くなられたソニーの盛田昭夫氏夫人・良子さんと二人きりで夕食。最後にご主人をハワイから日本に連れて帰られた時の話を特に深い感動をもって聞いた。良子さんが元気になっておられたので安心。来年、春のザルツブルグ音楽祭でカラヤン夫人が待っておられるでしょうから、必ずいらっしゃるように言う。
 
十月八日
 十時過ぎ発の新幹線で名古屋へ。日経若葉会で講演してすぐ帰宅。
 
十月九日、十日
 十二日に「出頭」する衆議院憲法調査会の講演内容の整理。後は、くたびれてぐたぐたと時間を過ごす。手紙の整理。これも結構くたびれる。
 
十月十一日
 午前十一時、日本財団で執行理事会。午後二時から市ヶ谷の防衛弘済会で講演。
 
十月十二日
 衆議院憲法調査会。「野党側が揃って欠席しておりますので、今日は人数が少なくて」としきりに言われたが、私は怠け者なのだろう。こういうオソロシイ席では、聴衆が少なければ少ないほど楽でいいと思う気持ちもある。
 私が憲法について喋ることがあるわけはないということは、真っ先に申しあげた。それに対して、直接憲法に関することでなくていい、二十一世紀の日本がどのような姿であるべきか、というテーマでいいというので出て来たのである。講演の途中印象に残ったことを二つ。
 第一は、記者席らしいものがあったので、ちょうどいいチャンスと思い、戦後日本で言論統制をしたのは、朝日、毎日、読売などの全国紙だった、と改めて言えたこと。私が生きた証人である。第二に、例えばインドなどで政府対政府の援助をしたら、目的の貧しい人に対してはほとんどゼロ・パーセントに近く届かないだろう、というインド人の話を紹介した時、中山太郎氏が、それは信じられない、というふうに首を傾げられたこと。
 午後、司法制度審議会。
 
十月十三日
 夜、大れい子さんの「創作バレエ公演」をメルパルクホールに見に行く。第一部の「コルベ、その死、その愛」はアゥシュビッツで他人の身代わりになって餓死刑を受けたコルベ神父の生涯を語ったもの。私の知る限り二回目の公演だが、前回と比べて刮目するほどの練りあげられ方になって深みを増していた。バレエの世界にも「推敲」ということがあるのか。
 第二部の「シャローム・シャローム・アレイヘム」では、毎年イスラエルヘ障害者との旅行をしている私たちの仲間が、客席から大勢手拍子を打って合唱した。皆幾つもの歌が歌えるようになっているのである。ステージと客席がこんなに融合する舞台など、日本では珍しいだろう。
 
十月十四日
 朝、八時半の飛行機で羽田発、福岡へ向かう。
 ずっと昔から、私の戦争に関する小説の「先生」でいらした妹尾考泰氏が亡くなられたことを、今年半ばになって知らされたので、ずいぶん後になったが、ご自宅にお寄りして、お参りをするため。妹尾氏は、私の『紅梅白梅』という小説の取材の時、当時のマレー作戦の状況をつぶさに教えてくださった。ご子息夫妻と弟さんにお会いできた。
 その後「一日教育改革国民会議」に対する公聴会のため大博多ホールヘ。意見発表者は皆それぞれ実にはっきりした考えを個性的に述べられたので感心した。正直に言って楽しい公聴会であった。
 
十月十五日
 日曜日にもかかわらず、午前中、雑誌の企画のためにホテル・オークラで日下公人氏と対談。
 
十月十六日
 日本財団の社員食堂のお昼御飯を利用して、インドの不可触民の調査に行く人員の顔合わせをした。同行してくださるのは、読売新聞の柳生周史氏、毎日新聞の南蓁誼氏、厚生省の前田光哉氏、東京都教育庁の大江近氏、両国中学校の前田めぐみ明永氏、ゼンセン同盟の森田恵さん、自費で前半だけ参加するという三浦朱門、財団から私を含めて職員が四人。うち二人は今年入社の新人である。最初にインドヘ行くということは、「鉄は熱いうちに打て」ということか。
 午後三時三十分から、十一月二十二日に行われる「日本財団賞」についての記者会見。これは日本財団の関連財団である日本顕彰会が実務のために働いてくれているものだが、叙勲や褒章の対象にならない社会の地味な場所で、長い間こつこつと人のために働いてくださった方、国際的な協力を惜しまなかった方、緊急時に命の危険を省みず救援のために働かれた方などに対しては、副賞として百万円。若者でありながら社会のために働いたグループには二十万円がやはり副賞として贈られる。
 今年は、規定の高度で脱出すればできたのに、住宅地の上に事故機が墜落するのを避けるために殉職された航空自衛隊の中川尋史・門屋義廣両氏にも贈られる。贈呈式の十一月二十二日はお二人の一周忌にあたるはずである。
 また海賊に乗っ取られた後、ボートに乗せられて十一日間も漂流中だったアロンドラ・レインボー号の日本人の船長と機関長を含む十七人の船員を救助してくれた、タイの漁船の船長チャオーン・チャルーンボン氏にも贈られ、氏は初めて飛行機に乗って日本に来るという。日本人を人質にして金を儲けるより、日本人を救えば金になる、という風評を作る方がいい、と私は考えている。
 昨年よりはるかに大勢の新聞記者が、発表を聞きに来てくれたことが嬉しい。郷土の誇りとは、今度表彰されるような人たちなのだから。
 
十月十七日
 日本財団で雑用を果たしながら、『サライ』『毎日が発見』『こども未来』三誌のインタビュー。
 
十月十八日
 午後から日本財団へ出勤。例によって雑務をしながら、NHK出版と聖書の講座に使われたテキストを本にする件の打ち合わせ。その後、日本気象協会の五十周年記念の講演会。
 
十月十九日、二十日、二十一日
 三戸浜に行く。久しぶりに執筆の合間に草取り。みるみるあちこちがきれいになると、私はこういう仕事に向いているんだなあ、と自分の才能を改めて発見。(背負うなー)
 二十日、皆で義兄の三回忌のお墓参り。帰りに三崎の町で会食。二十一日、しこたま魚を買って東京に帰る。
 
十月二十三日
 溜まっていた郵便物の整理。インド行きの支度。
 
十月二十四日
 新社屋改装には八社が入札に応募していた。当方は予定価格設定をする。理事長と私が決めた価格を書いて日付を入れ、封印して金庫に保管する。
 明日はまず朱門とシンガポールに向かう。そこで約八日、お休みをもらって、十一月二日に、インド行きの人たちとシンガポールで合流することになっている。
 夜遅くまで、その準備に追われてへとへとになる。
 
十月二十五日
 シンガポールまでは極めて順調に来たのに、市内は大混雑。明日がヒンドゥの人々のお祭りなので、オーチャード・ロードがめちゃくちゃに混んでいる。ナシム・ヒルの自宅マンションに着いて、東京から持参のお握りを食べて寝てしまった。
 
十月二十六日〜二十九日
 シンガポールの休日。
 ほとんど毎日、友人の陳儀文(日本名、勢子)さんが、私の家の日本食の夕飯を食べに来る。私は何のことはない料亭「みうら」の女将である。とは言っても、私が短時間にいい加減に作るお惣菜料理だからお粗末なものなのだが、何しろお米はコシヒカリ、お味噌も上等のあかだし、漬け物も日本から一口茄子の浅漬けまで持参しているのだから、何もしなくてもおいしいわけだ。
 その代わり、勢子さんのお誕生日には、長男のベン夫妻の家で、上海蟹を食べる会に招いてくれた。有名な上海蟹を食べるのは初めてである。ずわい蟹と実によく似ているが、こちらは茄でたてを食べなければいけないのだそうだ。
 私は二匹半だが、食べ方がどうもうまくない。三人の中国系の男性たちは、実に豪快に食べる。脚の細い所は「ちゅっ」とすする。人が食べる姿にこんなに見ほれたことはなかった。最後にお粥。これがまたおいしくて、朱門はお代わりして食べる。
 
十月三十日
 朝、新社屋改装入札の価格決定通知を待つ。理事長と私が決定した予定価格は、二十三億四百万円。大成建設が一番札を取って、十七億九千万円。一度で決まって本当によかった。普通こういうことはありえないとのこと。
 一つの理由は、業界に、改装工事は、「建てたところがやる」という不文律があって、入札制度にしても、他の社がおざなりの価格しか出さないので、いつも結果的に建てた会社に落ちることになっているという。「それなら最初から、建てたところは入札から除外する、と公告にうたえばいいじゃありませんか」と私が言ったのである。「習慣だから」という安逸を続けなくてもいいだろう。
 午後三時半、ナザン大統領が、私に会うと言ってくださっていたので、大統領府にお訪ねする。オーチャード・ロードに面した大統領官邸は、門のところだけ始終見ているのだが、中へ入るのは初めて。ゴルフ・コースがあるが、人の姿は見えない。大東亜戦争中、昭南市と呼ばれたシンガポールで、この白亜の大コロニアルスタイルの建物には、寺内元帥が住まわれていたはずである。
 ナザン大統領は、驚いたことに、日本財団がシンガポールの二階建てのバスに掲載している広告を見ておられた。「マラッカ・シンガポール海峡の保全は、三十年来、日本財団がやっています」という意味を英語、中国語、マレー語、タミール語で書いているのである。
 大統領には最近の海賊の状態、捕らえられた海賊船が船主に引き渡されるまでに支払った金額など、公表していない資料もお渡しした。
 今日の特筆すべき体験は、大統領をお待ちしている間に謁見の広間に飾られた各国元首の、写真とサインを拝見できたこと。竹下元総理のもあった。エリザベス女王のサインは、女学生のような感じである。マウントバッテン総督のは……お顔に見とれて忘れてしまった。
 
十一月二日
 夕方、ナシム・ヒルの家をしまって、インターコンチネンタル・ホテルに移動。今夜は、三浦朱門が東京から到着するインド組に「粗餐を差し上げる」ことになっている。文字通り安いが、おいしさは日本と比べられない広東料理だ。
 勉強の旅なのだから、好みよりも体験、というので勢子さんも手伝ってくれて「デンチー」などもメニューに入れた。蛙の脚である。これは大変美味なものなのだが、気持ち悪がる人がいるかもしれないから、黙って食べさせてしまおう、ということになった。
 予定通り、東京組は到着。
 田圃のチーは誰も嫌がって食べないどころか「おいしいものですね」ということになった。幸先極めてよし。
 
十一月三日
 暗いうちに町を走って、チャンギー空港へ。予定通り南インドのバンガロール着。町中の繁栄はすさまじい。新しいしゃれたショッピング・モールやオフィスビルがどんどん建っている。しかしインドのルピーが二円半だということがわかるまでに、日本人グループはずいぶんかかった。私はこういう計算ができない。できなければならない職業の人でも桁の計算を間違えている。それがおもしろいし、楽しいなあと、ますますメンバーがいい人に思えて来る。
 イエズス会に到着。それぞれに質素だが、きれいな部屋を頂く。つまり修道院泊まりなのである。
 午後、何組かに分かれて家庭訪問。私は厚生省の前田さんと一人の神父に連れられて、イエズス会の男子校で働いている先生の家へ。オートリキショウと呼ばれる三輪車に乗った。初乗りが十七円くらい。
 カトリックなので、マリア像があるが、何となくヒンドゥ風の飾りつけである。ベッドルーム一つ、サロン一つ、食堂兼幼い娘の寝室だろうと思われる部屋が一つ。
 前田さんがおられるので、医療関係のことも聞く。この国でも、やはり救急車はただでは病人を乗せないとのこと。たったこれだけのことでも、多くの日本人は救急車なら、どこの国でもただで誰でも乗せて行くものと思っている。中山太郎氏が首を傾げられた政府と政府の間に動く金が途中で減るか消えるかする話など、当たり前ということ。何しろ警官も学校の先生も、月給が四千〜五千ルピーなのだ。一万円から一万二千五百円くらいで家族を養えるわけがない。だから誰でもが、途中で何分かを取っても非難するのが難しい。インドのGNPは一九九八年度でまだ一人当たり四百四十ドル。それも一部のお金持ちがうんと取っているはずだ。
 もう一軒の家も、長い間会社に勤めたという中年の夫婦の家で、一番心を打たれたのは、別室で寝ている八十過ぎの父親をわざわざ起して紹介してくれたことだった。一家で老人を介護している。普通の日本人だったら、眠っている耳の遠い父親を起して、客に会わせたりしないだろう。親孝行というものは、どの国でもいい空気を示してくれる。
 
十一月四日
 朝六時半発。バンガロール北部の工業都市ビジャプールに向う。まだ暗い。町中を配水車が走っている。プラスチックの水がめをもった女性が、水をもらいに集まるのだ。それが毎日の生活なのだろう。
 走り出してすぐ運転手に、ビジャプールまで何キロですか、と聞くと、五百六十キロとのこと。高速道路もない一般道路を、東京・大阪間くらいの距離を走ることになるのだ。命の危険もないわけではない。
 ビジャプールヘ行く目的は、その空気と水の汚染のひどい工業都市に、私の働いている海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)が、二千七百万円で買った学校を見に行くことである。学校と言っても、油椰子を絞る工場である。日本では工場が学校にはならないでしょう、と言うが、インドでは、まず雨露をしのぐ屋根があれぱ学校は開業できるのだ。トイレさえなくても生徒は別に困らない。うちにもないのが普通なのだから。
 二千七百万円のうちの五百万円は、私たちが読売新聞社から国際協力賞として頂いたものである。それだけまとまったお金の使い方は、やはりはっきりした形で残した方がいいと思い、その適当な口を長い間探していた。そして今回その成果を見てもらうために、読売新聞社から柳生さんの参加を求めたのだ。
 イエズス会の神父たちはその学校で、不可触民の子供たちだけのための幼稚園と小学校を開きたい、と望んでいた。「だけの」という表現は微妙である。日本人の多くは、未だにインドに階級制度が残っていることを信じない。もちろん法的にはないことになっている。しかしこの差別は年毎にひどくなっているのだ。だから「不可触民の千供たちだけの学校」ということは、それより上の階級の子供は、ほぼ絶対に入学を希望しない、ということなのだ。
 私たちは神父たちのその意志と決意だけは確認した。しかしその本当の意味は、多分この旅行の途中でさらに明確になるだろう。
 



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