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「週刊文春」の三月八日号が「奉祝 創刊四十五周年『週刊新潮』底意地の悪いタイトル傑作選」というのを特集している。 私は幸運にも若い時から小説を書き始めたので、もう四十五年以上この仕事を続けている。しかしデビュー直後だったのと、週刊誌というものが、小説家の新人とは関係ない華やかな存在だったので、その出発のときはよく覚えていない。三年遅れでスタートしたという「週刊文春」には創刊号から連載小説を書かせてもらった。 「週刊新潮」とは深い関係はなかったが、文芸雑誌「新潮」も昔は本当に底意地が悪い、というか、むしろ品性下劣な雑誌だった。文芸雑誌なのに、まだ駆け出しの私のところに来て、嫉妬や家庭内争議を告白するようなエッセイを書けと言うのである。私は穏やかでない家庭に育ったし、嫉妬も人一倍あるだろうと思うけれど、テーマは自分で決める。 私に原稿を書くように言いに来た人が、「編集長がそう言うものですから」とそれでも困ったような顔でもすれば、私はすぐ内情を察したつもりだが、いかにもしたり顔で、断ればあんたは原稿を書くチャンスを失うのだよ、と言わんばかりだったので、私はその手の原稿を一度も書かなかったが、サド的社風の心理的餌食になった人はけっこういた。 しかしそういう状況はもう大分前から変わっていた。「週刊文春」が皇后バッシングの記事を書いた時、私は「週刊新潮」側から、それがどんなに調査をしないで書いたものか、調べに行った。天皇ご一家が、夜十一時すぎまで始終お客をする、という記事は、普通の家なら記録がないが、宮内庁に調べればすぐわかるのだから便利なものだ。夜十一時過ぎまでいられたお客さまは、一年間に四回だけだった。そのうちの二回はご結婚を間近に控えられた皇太子殿下がお打合せに来られたもの。もうお一人は外国から帰られた音楽の先生。もうお一人はどなただったか忘れたが、おいでになった方と退出された時間はすべて記録に残っていた。「週刊文春」にその時たまたま、調査の手抜きをするいい加減な記者がいて、雑誌は迷惑を被ったのだろう。 底意地など悪くなくても、品性下根でなくても、読みたい記事は作れる。今の新潮社の資料に対する扱いの厳密さには頭が下がる時がある。ものの考え方の幼い新聞と、文藝春秋共々、大人の視点で闘って行く伝統を守ってほしいと期待している。
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