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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 香典遺産贈与運動  
コラム名: 昼寝するお化け 第198回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2000/03/10  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私のオフィスに、或る日数人のお客があった。
 中心の人物は、一見健康そのものに見える中年の男性だが、実はもう二十年以上腎臓透析を受けている方だという。腎臓の透析は一週に三回、一生し続けなければならない人が多いから、当人にとってはかなり精神的負担となる。恐らく患者一人一人が、透析を受けながら生きることを心理的に受容するまでには、長い葛藤を経なければならなかっただろう。だから本当はこの肉体的・精神的呪縛から解き放ってあげるには、腎臓移植が一番いい方法なのだ。
 この方は、途中で実のお姉さんから、腎臓をもらって移植された。手術そのものは大成功だった。その時の解放感は、透析患者にしかわからないという。
 しかし結果は長く続かなかった。全く別の血液の病気で血管が詰まってしまい、せっかく受けた腎臓は使えなくなって透析に戻った。
 脳死段階による臓器提供は、最近次第に受け入れられて来たように見える。私はこの原稿をニューヨークに向かう飛行機の中で書いているのだが、つい先刻放映されたニュースの中でも、脳腫瘍で死期の迫っていることを深く意識したアメリカのミドルティーンの少年が、自ら自分の死後使える臓器を数え上げるようになった話が紹介された。
 少年は投与されたステロイドの副作用で顔が満月のようにむくむムーンフェイスになっており、言葉も少し不自由なようだが、両親は居間のソファのような所で、この子を抱きかかえるようにして、肌の触れ合いを保っていた。彼は一人にされていないのである。そして両親は、みずからの死を引き当てにして、他人に幸福を贈ろうとしている息子を、悲しみを超えて誇りに思うようになった。事実、この少年を中心に、子供たちの間にも、臓器提供をしようという運動が広がりつつある、という。そのような効果によって腎臓透析から解放される子供たちが増えれば、この少年の存在は幾つもの命に変わって生き続ける、と両親は感じ始めたのである。
 これが普通の世界的な反応である。しかし日本では、その人独自の自由な選択によって脳死段階で臓器を提供することさえ「脳死は死でない。臓器を取られることだ」と言って妨害した人たちがいたのである。そういう世論を恐れた政治が行われたので、まだ今のところは、日本の子供は外国に行って臓器移植手術を受けなければならない。しかし自国の子供さえ救えない利己主義な国家というものは、やはり恥ずかしいものだろう。
 私は若い時から、透析のむずかしさをよく知る機会があった。まだ私が三十代の初めの頃、同じ同人雑誌で小説を書いていた仲間が慢性腎炎になった。当時は透析に健康保険が適用されない時代だったから大変だった。一回の透析に何万とかかるのである。私たちはそれでも幸運な作家としての道を歩み出しており、同じ雑誌をやっていた仲間のうち梶山季之氏や有吉佐和子さんなどは、すでに流行作家だった。村上兵衛、阪田寛夫、岡谷公二などという人たちも活躍を始めており、三浦朱門と私も不流行作家なりに、少しは経済的に自由になる原稿料収入があった。それで私たちは皆でお金を出し合って、この友人の医療費を支えていた。しかしこの人は三十代半ばで亡くなった。
 私を訪ねて来られた客の用向きは、腎臓移植を推進し、透析患者全体に、生きる意欲を与えるために必要な募金活動を手伝えということであった。しかし私は利己主義だから、一に小説、二に今働いている日本財団の仕事、その二つしかやる気も体力の余裕もないのである。私は自分の身勝手を肯定するために「どうぞ、道徳的にいいお話には誘わないでください。悪事を計画なさる時には誘ってください」などと冗談を言ったのに、このお客人たちは少しも怒らず、寛大に会話を楽しんで帰られた。
 その時、私がこのグループのために何一つ働けないお詫びに、たった一つ提案したのは、遺言と香典の使い道である。
 誰でも死なない人はいない。だからこの二つは誰でも少しは関係があるのだ。
 全く財産がない、と思っている人でも、百万円や二百万円残して死ぬことはよくあることだろう。そこから最低の葬儀代を引いた残りがあったら、これこれの団体に寄付します、と遺言を残す。
 香典も、全く受け取らない人は別として、自分が腎臓で苦しんだから、腎臓患者たちが少しでも伸び伸びと有意義な人生を送れるように配慮して、香典の半分とか、十分の一とかを寄付するように家族を納得させ、遺言にも書いておくことも、これまたそれほどむずかしいことではない。
 病気で苦しんでいる人にこんなことを言うのは、酷なことかもしれないが、一応国家の費用で透析ができる国などというものは、それほど多くはないのである。アフリカの多くの国では、首都の病院にさえ透析の機械が全くないところがある。仮に一台二台あったところで、それは極く例外的な金持ちしか使えない。貧乏人は、そのまま死ぬことになっている。腎臓病だけでない。癌でも結核でもエイズでも、ほとんど医療的には何一つ有効な治療を受けられずに息を引き取る病人がほとんどなのだ。
 日本の病院は、医師が付け届けの額で態度を変えるとか、老人にはあしらいが悪いとか、いろいろな文句はよく聞くが、それでも全く放置されることはない。その最低の治療さえしてもらえない国がたくさんあることを思えば、日本に生まれて、透析を断られたこともなく、高額の費用の自費負担もなくて済んだことは深く感謝してもいいことだろうと思う。
 だから特定の病気を持っている人たちの家族は、その病気の治療のために遺産と香典の一部ないしは全部を寄付すればいいのだし、またそういう目的のためになら、お金を出し易い心理になるだろう。
 糖尿でも、アルツハイマーでも、リューマチでも、人は長年さまざまな病気に苦しむ。子供にも他人にも、こういう苦しみはさせたくないと思う。そう思うだけで、その人の存在意義はあるのだ。
 その原因を探る機関や救う組織に、最後にお金を出してこの世を去っていくことには大きな意味がある。そのためには香典・遺産贈与運動が一番いいのだ。縁起でもない、などと私は少しも思わない。人は誰でも必ず死ぬのだ。そして募金という行為には、本来あまり人手をかけてはいけないのだから、この方法が一番効率がいい。
 何より大切なのは、集まったお金を正しく使うことだ。お金の出し入れにはかならず複数が立ち会う。そうした基本的なルールを厳正に守れば、必要なお金は必ず届けられ集まるはずである。
 



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