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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: この少年少女たちの「失われた希望」を取り戻したい!  
コラム名: [アフリカ発]曽野綾子さんが新伝染病「ダロアおでき」の惨状を報告   
出版物名: 女性セブン  
出版社名: 小学館  
発行日: 1998/10/08  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「それは正視に耐えられない、悲惨この上もない状況でした」作家の曽野綾子さんが、アフリカで「ダロアおでき」という伝染病に初めて出合ったとき目にしたものは、肉が腐り乳房を失った少女や脚の骨がむき出しになった少年だった。それから3年半後、再びその視察に訪れたとき、ひとりの少年患者に笑顔を見た。果たしてその笑顔は「ダロアおでき」克服へとつながるのか。アフリカで多くの子供を苦しめている恐怖の伝染病の現状を追う。


「3年ほど前、初めてアフリカの象牙海岸のその国(コートジボアール)でこの病気を見ました。からだの一部が腐って落ちるんです。私はずいぶん昔、インドで2000人以上のハンセン病患者さんに会っているんですけど、いまでは初期に投薬すれば、水虫より簡単に治るハンセン病が、当時はその後遺症が放置されたままの人が多かった。そのときでも、あんな崩れ方はしません」
 作家の曽野綾子さんは、言葉を選ぶように語りはじめた。話は´95年2月に遡る。
 ある民間援助組織の活動に参加していた曽野さんは、仲間の人たちと一緒に、西アフリカのコートジボアールを訪ねた。
 旧首都・アビジャンから車で3時間半、ようやく着いたのは、ズクブという小さな町。修道院のシスターが寄付を集めて建てたという診療所で、曽野さんが目にしたのは、その町の周辺で「ダロアおでき」と呼ばれている奇病だった。
「それは、正視に耐えられないというか、悲惨この上もない状況でした。15才くらいの少女がベッドに横たわっていて、ふと見ると片方の乳房が、まるでえぐられたように欠落しているんです。
 そして斜め向かいのベッドで、シスターに手当てをしてもらっている12才くらいの少年の太ももを見て驚きました。太ももの肉が腐って溶けかかり、骨が見えるまでになっていました」
 絶句する曽野さんの目の前で、ドイツ人のシスターと男性の看護助手が、患者たちの傷を洗い、どぎつい紫色の薬を塗布している。
「現在のところ医学的にこれという治療薬はありません。ですから、これしか方法がないのです」
 シスターの瞳が悲しげに歪んだ。左足の肉が溶けた10才くらいの少年は、松葉杖にすがって、やっとの思いで歩いている。患者たちは、大人でも子供でも老人のような身のこなしになっていた。

洪水が起きた湿地帯で多発
 曽野さんが病室を出ようとしたとき、17才くらいの少女が、心なしかニコッと徴笑んだような気がした。
「右手の傷口が腐りかけていて、左手で握手をしながら、彼女の着ている粗末な服を見てびっくりしました。
 信じられないことに、その服の生地には、フランス語で“失われた希望”と書いてあったんです。もう呆気に取られてシスターに尋ねると、どこかの生地のメーカーが、貧しい人たちに配ったのではないかというんです。
 豊かな社会の若者たちがパロディーとして使うならいざ知らず、真実貧しいアフリカのこの国で“失われた希望”という文字を、わざわざデザインとして採用するメーカーの真意が、私にはわかりませんでした」
 傷口から腐臭を漂わせている17才の少女の胸にちりばめられた“失われた希望”という文字は、曽野さんの胸深く染み込んだ。
 それから2年半余りがたち曽野さんは、日本財団(財団法人・日本船舶振興会)の会長に就任した。これまで日本財団は、ハンセン病の根絶のため、国際医療協力の輪の中でさまざまな支援活動をつづけてきたが、今度は、日本ではまだほとんど知られていないこの難病に目を向けることになったのだ。
「ダロアおでき」というのは、コートジボアールのダロア地区での通称だが、医学的には「ブルーリィ・アルサー」と呼ばれる。
 ′40年代末、中央アフリカのビクトリア湖が決壊し、未曽有の大洪水を引き起こした。その溢れ出た水は、ウガンダのブルーリィ地区にまで達した。そして洪水が引いたあとの湿地帯でこの病気が多発し、そのためにブルーリィ・アルサー(アルサーとは潰瘍の意)の名が付けられたという。厚生省の国際伝染病専門官の1人が、この病気の現状について語る。
「その後、同様の発病がオーストラリアや南米でも見られ、各地での調査が進むにつれて全世界的な分布が判明するようになったんです」
 WHO(世界保健機関)の調査によると、新患者は毎年、1万5000人ずつ増えており、この病気の後遺症で苦しむ患者は、15万〜20万人といわれている。
 現在までのところ、24か国でその症例が報告されており、アフリカ諸国だけではなく、メキシコ、ペルー、フランス領ギアナ、ボリビアなどの中南米諸国。
 そしてオーストラリア、パプアニューギニアの西太平洋諸国。さらにインドネシア、マレーシア、インドと、東南アジア諸国にまで広がっているのだ。
「土壌や水から皮膚への感染が考えられていますが、感染経路はいまのところ、不明なんです。ただ、空気感染はしないようです。この病気は特定の地域だけで流行する特徴があるのですが、空気感染するなら、もっと広がっているはずでしょう。
 そして、かわいそうなのは、15才未満の子供が圧倒的に多いことなんですよ」(前出の厚生省国際伝染病専門官)

30人の患者のうち半数が15歳未満
 今年、8月26日から約2週間、曽野さんはアフリカの各地を視察した。厚生省、農水省ら関連省庁、マスコミ関係者、日本財団スタッフら合わせて17名の視察調査団は、病気や飢えに苦しむ人々を見てまわった。
 そして8月30日、曽野さんは一行とともに、およそ3年半ぶりに、再びコートジボアールのズクブの大地に立った。「聖ミカエル健康センター」という診療所を訪ねた。表から見ると真っ白な建物は、まるで保養所のように見えたが、中にいる人たちは、病気が進んだ状態でやっとここにたどりついた人たちである。
 12才の少年が、ぼんやりと天井を見つめていた。その少年の右腕には、白い包帯がぐるぐると巻かれていた。
「ドクターは病気の実態を見せてくださりたい。でも包帯をはがすのは痛いんですよ、かわいそうに。だからゴメンなさいと心の中でいうほかないんです」
 それがわかったのか、少年は進んでそのつらい役目をかって出た。それからがたいへんだった。同行したスタッフの1人がこういう。
「病院にたった1人いる医師が、包帯をはがしたんですが、ぴったりと包帯が傷口にくっついていて、どんなにすごい痛みだろうと……。もう、私の方がわなわなからだが震えました」
 包帯の下から現れた腕には、皮膚がまるでなかった。太ももほどに腫れ上がった右腕は、石榴を割ったような赤い色をしていた。
 曽野さんは、少年の左手の甲に、アニメのキャラクターのシールをポンと貼ると、やさしく徴笑みかけた。日本から携えてきたささやかなおみやげだった。それを眺めた少年の瞳が和らいで、にっこりと笑った。この診療所には、3年半前にいなかった医師がいまはいる。そのため、前回より、子供たちの病気の状態はよく見えた。
「目に見えた病気がなくなったら、すばらしいですね。こんなときに立ち会える人間はなかなかいません」
 と曽野さんはいう。
 その施設には、30人ほどの患者がいたが、そのうちの半数が15才未満の子供たちで、そのすべてがブルーリィ・アルサーに侵されていた。その模様を写真に収めたカメラマンの犬飼政雄さんが、こう振り返る。
「どの子も、それはすごい痛みと闘っている。それだけでも、じっとしていられない感じでした。
 15才の少年の足は、完全に腐っていて、とても人間の足だとは思えない。ゾウのように皮膚が盛りあがって、パックリと割れているんです。レンズを近づけると、表現のしようのない腐臭がして、夢中でシャッターを切りながら、涙をこらえるのが、精いっぱいでした」

それもアフリカの現実なんです
 ブルーリィ・アルサーは、からだの部位であればどこでも侵食するが、とりわけ手足が多く、足は手の2倍も侵されているという報告がある。
「最初は、皮膚ににきびに似た突起ができるんです。
 しかし、少しかゆくなりますが痛みがないので気づかない。
 それに、破傷風などとの合併症を起こさない限り、この病気だけで死ぬということはないものですから、そのために治療を受けるのが大幅に遅れ、このしこりを放置しておくとだんだん大きな潰瘍となり、最後は、組織の壊死につながるわけです」(同行した時事通信外信部記者の松尾圭介さん)
 こうした組織の壊死は、ブルーリィ・アルサーの菌から出る毒素に起因すると見られるが、現状では詳しいことが解明されていないため、唯一の治療法は手術による幹部の切除である。
「けれど、実際には手術できるような施設がほとんどないんです。それに病院へ行くにも、数十キロも離れたところに住んでいる人が多いでしょう。路線バスも自転車もない人たちですから。それでも腐りゆくからだを引きずって診療所までたどり着ける人はいいほうで、たいがいは歩くこともできず、傷みに耐えながらただじっとしていなければいけないんです。
 でも、それもアフリカの現実なんですよ」
 曽野さんは、少しトーンを高くしていった。

日本でも1件だけよく似た症状が
 昨年12月、WHOは国際的なブルーリィ・アルサー対策を展開すると発表した。そして、今年6月初めには、コートジボアールで、世界各地から医療の専門家が集まって、会議が開かれた。
 人類を静かに深く蝕み始めたこの奇病に、ようやくメスが入れられたところだが、曽野さんは、淡々とした口調でこういう。
「病気の早期発見の手だてをどうするか。それから有効な抗生物質がないか、ワクチンで予防ができないか、やらなくてはいけないことは、これからですが、ひとつひとつ、やっていくしかないと思っています。
 アフリカを再生するためには、あえて援助などをしない方がいいという意見もあります。
 中途半端な援助は問題の解決を遅らせるだけだから、死ぬべきものは死なせるべきというのです。
 それも一つの愛かもしれません。けれど私は平凡な考えですから、世界中の貧困や難病や飢餓に苦しむ人々をすべて救えないかもしれないけど、いま、目の前にある惨状は見捨てることはできないんです」
 からだの一部が腐りゆくこの病気の現実に、私たちはどうせ遠い国のことだと無関心を装ってしまう。
 日本では80年代後半に、信州大学の医学部が、外国に行ったことのない19才の日本女性に、この病気とよく似た症状が表れたと発表した。
 結局、類似菌ということだったが、近いものが存在したことは確かなことだ。
 熱帯地方の病気と思いがちだが、いつ私たちを見舞うかもしれないのだ。
 曽野さんが最後にこういった。
「私たち日本人は、あんまり幸福すぎて、不幸がわからなくなりかけている。
 アフリカをはじめとする熱帯地方の人だけが不運なのではなく、この病気をきっかけに、同じ地球に生きる人間として“いたむ”という思いが欠落すると、そういう人たちは今度は幸福がわからなくなるんです」
 ズクブの診療所の少女の胸にあった“失われた希望”を何としても取りもどさなくてはいけない。
 



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