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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 完全な自由人?一切の肩書なしにただの人になる  
コラム名: 自分の顔相手の顔 256  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/07/20  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私あてに頂いた私信なので、誰からもらったか言えない。ほんとうは固有名詞を出したくてたまらないのだけれど、そのままの文面はやはり、ご遠慮すべきだろう。
 親子代々、その企業の経営者だった方が、今度ほんとうに会社を引くことになった。社長になり、会長になり、名誉会長になり、顧問になったというような、肩書の上での変遷も当然おありだったのだろうと思うが、私は人のそういう立場に興味がないし、教えられてもそれがどういうものかニュアンスもよくわからないので、この方のことについてもほとんど会社での経緯を知らないままにお付き合いも過ぎてしまった。
 多分七十歳を過ぎて、今度はほんとうに一切の肩書なしに、ただの人間になることを決意されたのである。まだ体の元気なうちに完全に解放されて、長年連れ添って功績大である妻と、自由に楽しいことをしたい。以前は「売る」側だったが、今度は少し口ウルサイ客として、ものを「買う」側の楽しさも味わってみたい。まさに着々と予定通りの己を律した生き方である。この方にとっては、すべての世の中のことを、少年のような初々しさで、初体験の楽しさとして味わうことになったのである。
 お料理には煩い方だという世評もあったが、近くのお総菜屋ふうの洋食屋にもおいしいところがある。そんな店へふらりと行ける。何より散歩が好きだ。ゴルフも多分お上手なのだろうが、私はゴルフをしないので何とも言えない。
 とにかく毎日一時間ほど散歩をするのだが、長らく住みついたその方の家のある住宅地も、最近は時々、空き巣やドロボーが入ったという噂が立っている。せめて散歩の途中には、パトロール代わりにでもなれば、と書いてあるので、私は笑い出した。
 こんなすばらしい楽しい手紙を読んだのは、ほんとうに久々である。ここにはまず完全な自由人の姿勢がある。
 会社の車以外には乗ったことがなく、いつも秘書がついていて、横町のラーメンが食べたくても、世間の眼がそれを許さない。そんな窮屈な奴隷の境涯から脱して、好きなこと、できること、すべて心を躍らせることを自由にしてよくなったのだ。それは冒険、青春、自由、恋、などのすべてを一挙に取り返したような爽やかな気分だろう。
 その人の名前を知らない人は財界ではいない。しかしそんなことが幸福な生き方とは限らない。今は、はっきりと心を切り換えて、自分という一人の人間に還ることのまことにうまかった方なのである。
 外国では、定年後自由人に還ってからボランティアをやる人も多い。日本のエリートやエクゼクティヴで、自らかがんで他人の靴の紐を結んであげることのできる人は少ないが、むしろ靴の紐を結べることは健康の証であり、経済的にも、心理的にも余裕のある人なのだ。そう思ってみれば、定年後にやることはありすぎるほどである。
 



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