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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ポーランドの秋(下) アウシュヴィッツの「夜と霧」  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/04/24  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ オシフェンチーム市ヘ ≫

 ポーランドの「京都」にもたとえられる古都クラクフから、次の出張先、チェコのプラハまで、一番手っとり早いルートは、車で山を越えることだと教わった。

「その方が汽車でワルシャワに戻り、空路プラハに行くよりも、結局は早く着く。こちらを朝出ても、接続のよい飛行機がないからね」と。クラクフのホテルのコンシェルジェに、プラハまで遠征してくれる車を雇うべくあらかじめ手配してもらった。

 秋のポーランド、田舎のドライブはいかに。出発の前夜、地図を開いた。途中、アウシュヴィッツの町があるとも聞いていた。しかしポーランド発行の地図には、該当する地名がない。第二次大戦中のこの世の地獄、アウシュヴィッツ強制収容所跡に是非立ち寄りたいと思っていたのだ。

 ポーランド語でOSWIENCIM(オシフェンチーム)という地名が見つかった。

 多分、これではないか??。LONELY・PLANETの旅行案内書『POLAND編』で確かめたら、私の勘は当たっていた。

「Oswiencim(osh-vyencheem)はクラクフの西六十キロにある中規模の工業の町。ポーランド語だと外国人にはなじみがないが、ドイツ語ではAushwitz(アウシュヴィッツ)と書く。ここにあった欧州最大のナチ強制収容所跡はそっくり博物館になっている。人類史上最大の殺戮の場所であり、かつ世界最大の墓場でもある。ポーランド旅行者にとって最も感動的な観光スポットである??そう書かれていたのである。

 二〇〇〇年十月の中旬。ホテルを早発ちして、オシフェンチーム市に向かう。霧が深い。沿道の黄葉は、褐色の冬の葉に変わりつつある。国道七八○号線の沿道は初冬のポーランドの田舎の風景そのものである。霧の中を急ブレーキをかける。突然、野菜を積んだ馬車が車の前方の視界に現れたり、三々五々、バス停に向かう歩行者を発見したりで、冷やりとさせられる。

 国道を左折すると鉄道線路が見え隠れする。踏切りを渡るとオシフェンチーム市に入る。少なくとも三本の路線が入っている。この町は昔から鉄道の分岐点だったらしい。駅から引込み線が平坦な盆地に向かっている。

 引込み線の終点、それがアウシュヴィッツとビルケナウ強制収容所跡であった。大部分は取り壊されずに、博物館になっている。午前八時開門を待って中に入る。入口で求めた案内書で、アウシュヴィッツの集団殺戮作戦をナチスは「夜と霧」命令と称していたことを知る。「異教徒や政治犯を家族ぐるみ一夜にして消す」という意味とのことだ。

 アウシュヴィッツ収容所は一九四〇年、ポーランドの政治犯を入れるために作られたが、その後、ヨーロッパのユダヤ人を抹殺するセンターとなった。二キロほど離れたビルケナウにもアウシュヴィッツ第二収容所が建設された。この二つの“殺人工場”で、二十七カ国の二百万人が、“処理”されたが、このうち八五〜九〇%の人々は、ユダヤ人だったという。

 

≪ 「働けば自由になる」か ≫

 朝霧が消えた。初冬の柔らかい日ざしの中に有刺鉄線の門があった。「ARBEIT MACHTFREI」(ドイツ語、働けば自由になるの意)と人を冷笑するかの如き、ふざけた標語が刻まれたアーチがかかっている。この門の中にレンガ作りの収容施設と、かの悪名をはせたガス室、死体焼却炉、そして絞首台と銃殺のためのレンガの壁があった。

 日曜日の朝のせいで、人気のほとんどない門をくぐる。門の中で何が起こったのかは、特別の想像力や解説を必要としない。そう思ってガイド抜きで歩きまわったのである。

 私は、旅をするとき、カメラを持参しないことが多い。その代わりペン画のスケッチを残すことにしている。その方が、私の脳に強く印象が焼きつけられると思うからだ。いま私は、当時のメモ帳の数枚のスケッチをもとに、この旅行記を書いている。「働けば自由になる門」の私のペン画には、「有刺鉄線の棚が、二重に張りめぐらされている。棚と棚の中間には、引込み線のレールの跡がある。働けば“自由”とは“死”の事か。人を軽蔑するにもほどがある。囚人たちは何を思ってこの門をくぐったのだろう」と添え書きがしてある。

 二十八棟あったという「囚人棟」には、一時、二万八千人もの囚人で、ぎっしり詰まっていたという。三段のカイコ棚で、二メートル×二メートル半の棚の上に、九人が詰めこまれて寝たという。この囚人棟でいったい何が行われたのか。残された証拠が公開されていた。

「死の11号棟」に入る。ここは「健康で頑健」なるが故に、入所時の選別で幸運にも? ガス室行きを免かれた“労働奴隷”たちの刑務所だった。ガスでは殺されなかったものの、「抵抗した」「脱走を計画した」「不服従」などの理由で、即席裁判にかけられる人々の監禁室だ。囚人をつなぐ杭、鞭打ち台、餓死させるための部屋、立ったまま身動きのとれない立ち牢、移動絞首台などがそのまま残っていた。

 いくつかの元囚人棟には、ガス室に送られた人々の所持品が展示されていた。おびただしい数のトランク、ブラシ、靴。さらには義手、眼鏡、コルセット、松葉杖そして山のように積まれた女性の髪の毛があった。人間の髪の毛で織られたカーペットも。三つ編みの状態のまま死体から切りとられた女性の髪の毛が生々しい。

 私のスケッチの中にトランクがある。そのひとつから、所有者の名前がはっきりと読み取れた。「L.Berman.26,12,1886 Hamburg」と白ペンキで記入されている。一八八六年生まれのガス室送りの囚人が「労働して自由(釈放)になる日」を夢見て、所持品に自署したものだろう。ユダヤ教徒であることを示すダビデの星のマークがついていた。このほかに山と積まれたトランクから、オスロ、アテネ、ハーグ、リヨン、ローマの住所が読み取れた。欧州の広い範囲で、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りが行われたことを示す証拠の品々だ。

 ガス室と焼却炉跡に入る。「消毒室」の看板が掲げられている。欧州各地から貨車で連れて来られた囚人たちに、シラミを取り除くための建物の印象を与え、パニックを防ぐためのトリックだ。裸にされた囚人たちは一回に二百五十人ずつ部屋に入れられ、扉には厳重に鍵がかけられる。シャワーの代わりに、「チクロンB」(青酸天然化合物)が、注がれ、壁の穴から猛毒ガスが発生する。三十分後には扉が開かれ、死体は焼却炉で焼かれ、骨は粉砕され川に捨てられたという。

 

≪ SS(親衛隊)? に冷や汗をかく ≫

 私は焼却炉のスケッチをしていた。その時、規則正しいリズムで、砂利道を踏む複数の足音が背後に迫ってきた。振り返って一瞬、ぎょっとなった。軍隊の正服に身を固めた一団が近づいてきたではないか。もちろんナチスのSS(親衛隊)であるはずはなかった。ポーランド軍人の見学グループであった。

 だが一筋の冷や汗が私の背中を伝わったのだ。鬼気迫る情景の連続で、私自身、少し心理的におかしくなっていたのだろう。

 ここから約二キロ、ブジェジンカ村まで、ゲートの外に待たせた車で足をのばす。アウシュヴィッツ第二、「ビルケナウ強制収容所」跡がある。第一収容所が手狭になったので、一九四〇年に建設された巨大な殺人工場だ。

 一九四五年、ソ連軍に解放されるまで百万人以上の命が奪われた場所だ。一・七五ヘクタールに三百棟の建物と四つのガス室と死体焼却工場があったという。新幹線軌道と同じ幅の引込み線が入っている。

 機関車の汽笛が気味悪く響き、到着の合図をする。行き先を告げられずに貨車で運ばれ囚人たちは、立札を見てアウシュヴィッツに着いたことを知る。

 幾重にも張りめぐらされた鉄条網、巨大な見張塔のあるゲートをくぐる。ボロをまとった疲れ果てた人々は長い列を作る。ナチの親衛隊の将校が、ここで生と「死」の選別をする。女、子供、老人、病人など強制労働に適さないと判定されたものはそのまま「浴場」すなわちガス室に送られる。一日で一万人処理されたこともある。血色のよい男たち(全体の二〇%という)は強制労働棟に収容される。

 ダビデの星のついた揃いのTシャツを着たイスラエルの高校生の一団が見学に来ていた。引率の先生が、焼却炉の煙突を指さし、何やらヘブライ語で解説していた。

「人間の世界には、悪人と善人が別々の土地に住み分けしているのか。それとも一人の人間の中に善人と悪人が同時に住んでいるのか。それはにわかには断定できない人間論の永遠のテーマだ。でも人間の極限悪であるこの“殺人工場”跡を訪れると、狂気の悪人がある時期、ある地域に集団で発生したとする前者の説に傾きがちになる」。私が、引率者だったら、多分、そう解説したにちがいない。私のメモ帳には、「死への鉄路」と題するスケッチの横に、同様の感想が記されている。
 



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