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うちでは、昼の十二時から一時までの間に電話がかかると、申しわけないが受話器を取らないことになっている。私の家では、律義に?世間の人が食事をするような時間に一家揃って、秘書も交えてご飯を食べるので、その間に電話に出ていると、どんなご飯を食べたのかわからなくなってしまうからである。 昔だってそういう時間に電話がかかることはあった。しかしそういう時、相手は必ず、「お食事中でなかったでしょうか。悪い時におかけしまして……」 と言い訳をしたものであった。そう言われると、怒る人は少ないだろう。まだ食べかけでも、「いいえ、ちょうど今、済んだところです」などと嘘の一つもついたものであった。 しかし今のマスコミにはそういう控えめなところは全くない。自分の手が空いた時なら、いつでも人を呼び出していいと考える。もしかすると、食事時は仕事の手を止めているだろうから、電話をかけるならその時がいい、と考えるのかも知れない。そして私のように、食事は人生の大事で、熱いおかずが冷めたら大損、などと思う小人物は、どんなに人から電話で呼んで頂くことは人間関係の中でありがたいことか知りつつも、電話には出ないことにしよう、などという身勝手な規則を作ったのである。 私の小さい頃、母たちの世代はよく遠慮したものだった。今では遠慮するなどということがないから、もうどういう時に人は遠慮をするものかさえ、わからなくなっている世代も多いだろう、と思う。 昔の遠慮で最も多かったものは、「お邪魔(ご面倒)になるといけないから」というものだった。しかし今では、誰でも、「それをする権利がある」と言う。理由はさまざまだ。こちらは病気なのだから、年を取っているのだから、初めてだから、一生に一度だから、それをする権利がある、というふうに言う。 基本は確かにそうである。しかしそれとなく、人にあまり面倒をかけず、邪魔をしないように配慮するということは、日本人に独特の能力で、それはやはり一種の見事な精神性の表現だったような気がする。 外国に行くといよいよそのことを感じさせられる。この国の辞書には「遠慮」などという単語はないのだろう、と思わせられるような国民性も多い。誰もが自分の利益のために執拗に言い張り、一歩も譲らず、相手の立場は決して考えない。そういう世界で生き延びようとすると、図々しい私でさえ、時には疲れが溜まって来る。 そういう時、ふと遠慮がちだった古い日本人が懐かしくなる。こちらが「かまいません」と言っているのに、さらに遠慮するような人もめんどうくさいが、昼ご飯の最中にもかかわらずしつこく電話を鳴らされると、私はコワーイ顔をして「電話よりご飯が大事」などと言うのである。
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