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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 塵に還る  
コラム名: 私日記 連載55  
出版物名: サンデー毎日  
出版社名: 毎日新聞社出版局  
発行日: 1998/04/26  
※この記事は、著者と毎日新聞社出版局の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社出版局に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社出版局の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九八年三月三十一日
 いつも火曜日には日本財団で執行理事会が行われる。今年度だけで、四十五回の執行理事会を開いたことになる。
 午後二時から、厚生省で職員に講演。今年から自已点検の日というのを定めたそうで、その材料になることを提供すればいいのである。
 昔ユダヤ教の有名なラビ(先生)の講演会を東京で聞いた時、一人の学生が「ユダヤ人には、豚肉やエビ・カニ・タコ・イカなんかを食べてはいけないという食物規制があるが、どうして未だにそんな旧態依然の迷信みたいなことを守っているんですか」と質問した。
 するとそのラビは、少しもたじろがず「今から二百年前、人間は今私たちが普通に使っているようなものの存在を何一つ知りませんでした。電気、電話、飛行機、自動車、電車、テレビ、何一つこの世に存在するだろう、という想像さえしなかった。私たちは常に永遠に未知なる世界の手前にいるのです。ですから禁じられたことは一応守っておくのです」
 と答えた。
 厚生省の仕事も、永遠に未知なる世界の手前にいる。その恐れとおののきが必要だろう。大変な仕事を引き受けて、お気の毒に、と思うこともある。簡単に、科学の進歩で、世界をよくすることができると思ったら大きな間違いである。せっかく職員のほとんどがおられるところなので、もう一度、ステロイド・ホルモンの一種を大量に摂取することになる避妊用のピルを簡単に解禁していいのかどうかに触れた。
 今どきの女子学生は、教授の家でも平気で、「奥さん、水ください。私、ピル飲まなきゃならないから」と言うのだそうだ。私は自分の道徳をおしつけようとして、ピルをいけないと言っているわけではない。厚生省と製薬会社は、ピルの使用によって血圧と血糖値の上昇、肥満、免疫力の低下、などを起こすことをちゃんと警告し、防ぐ方法があるのですか、と言っているだけである。
 帰りに本郷の病院へ、友人の見舞い。持参した差し入れのおかずには、朝、うちの畑で採った二本のアスパラガスを入れた。
 四月一日
 新年度。財団で辞令の交付と新年度の挨拶。新人は男子一人、女子一人。
 新人のために、もう一度、同じ挨拶を繰り返す。
「うちは虎ノ門の交差点のこちら側にあり、向こうには霞が関の官庁が並んでいます。霞が関は、『できない理由を素早く正確に言う秀才のいる所』です。これも許認可のためには必要な才能です。しかしうちは虎ノ門ですから霞が関を見習わないでください。できない理由を、ではなく、どうしたらできるか、その方法を考えられる組織になってください」
 昼少し前、ロボット研究についての説明を受ける。ロボットが、寝たままの人の視線を感じると、その方向にあるジュースなどを持って来る。発想の転換もあって、なかなか微笑ましい。しかしジュースを病人や老人に与えることは簡単だ。機能的な棚を作っておいて、雑多なものに手が届くように工夫すればいい。
 問題は零したジュースをどう拭いてあげるかということだ。それより重大なのは、トイレをどうしたら介添えの人が力を入れずにさせられるか、そしてその後で、汚れたお尻をどうしたら徹底してきれいにしてあげられるか、ということだ。
 老人問題は、まず老人の介護を、時たまではなく、一年か二年、引き受けてやってみることから始まるような気がする。そうするとあらゆる問題が体に染み込む。しかしこういう心の温かい研究者が出ること自体が希望なのだ、と痛感する。
 午後、リスボン国際博覧会ジャパン・デー実行委員会の会合。七月十九日、二十日がその日に当たっている。日本よりは呑気なお国柄だろうから、当日になるまで決まらない部分もけっこうあるだろうけれど、温かい人情で補ってうまく行くだろう、と思う。
 夜、息子の妻の暁子と孫の太一にひさしぶりで会い、原宿で夕食をいっしょにした。太一の高校入学を祝って葡萄酒を開ける。こういう時だけ、太一にもテーブル・マナーをきちんと教える。ほんとうは一家全員お行儀を守る情熱も薄いのだが「これも浮世の義理」と思って世間に従うことを太一に教える。
 四月二日
 朝起きてみたら、息子の太郎が、昨夜遅く関西から着いたそうで朝食のテーブルに座っていた。一家で東京見物をすることにする。太一は「皇居は知ってる」と言うくらい。だから典型的なお上りさん。
 まず上野の国立博物館へ行く。太郎の説明で、最初に考古学館。それから東南アジア館で大谷探検隊が持って帰った西域の美術品を堪能する。
 浅草へ出て駒形でどじょう鍋とくじら。私は小さい時の思い出もあって卵焼きも取る。食後、浅草寺に参拝、芋ようかんを買い、更に芝の増上寺にも立ち寄り、いつもは開けられていない徳川家代々の墓所を拝む。桜が時々散って、誰もが同じ塵に還る運命を静かに語っていた。
 



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