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五月二日〜四日 待ちに待った連休。三浦半島三戸浜の家で畑仕事。毎年四月の「農繁期」に必ず障害者の方たちとイタリアとイスラエルヘでかけるので、畑仕事がいつも遅れてしまう。 季節感もその間だけ欠落して、毎年秋にチューリップの球根を植えるのだが、咲き揃った花をまともに見たことがない。ほかにも数本、花を見たことがない木がある。このまま死ぬと少し残念だと思うだろうか、と考えてみたが、人間は基本的に必ず思いを残して死ぬものだ、と思っているから、特に残念でもない。 知人夫妻が畑仕事の助っ人に来てくれる。ご主人の方はペンより重いものは持ったことがないと言われる職業なのに、畝作りがやたらにうまい。「どうしてうまくおなりになったの?」と聞くと、戦後、畑作りをさせられたからだと言う。私も戦争中、学校の粘土質のテニス・コートを耕して何か植えた記憶があるが全く収穫はなかった。その時、農業の才能はないと思っていたが、今は好きだと思っているのだから、人は生涯、変わり続けるものなのだろう。 韓国の李庚宰神父が、韓国大使館の武官夫妻など友人三人と来訪。朝、三浦海岸カトリック教会で落ち合い、いっしょにミサを上げられる。 ここへ来ると、野菜がいいので、三浦産のキャベツ、新玉葱、新ジャガ、オーストラリア産の人参でシチューを作る。人参より新ジャガの方が早く煮えてしかも煮崩れするので、大きく切ったお薯が茹だったら、すぐ味つけをするくらいでちょうどいい。 今年は玉葱も柑橘類も最高のでき。玉葱はいつも私が苗を作るのだが、去年はがっしりした苗を作れたので、玉も太っている。蜜柑の木の足元には、花が白い雪のように散り敷いて香りがすばらしい。一度この花を集めてお風呂に入れたこともあった。この分では摘果作業がまた一仕事になる。 五月九日 午後、渋谷のデパートヘ靴を買いに行こうと思う。一年前に脛を折ってから、怪我した右足だけ、○・五ミリくらい靴のサイズが大きくなってしまった。 夫に「いっしょに行く?」と誘うと、「うん」と言うので、何カ月ぶりかでいっしょに東横線に乗った。 私は昭和十年に今住んでいる土地に、父母に抱かれて移り住んだ。当時まだ売り出し中だったこの東急沿線の土地を両親が買って家を建てたのである。戦争の時、家を売って疎開する人が出て、戦後土地が値上がりしてまた手放す人が出た。うちのように戦前からずっと住んでいて、庭の縁側の先に当たる場所に甘柿の木が植わっているような家はもうほとんどなくなった。 最近、駅のプラットホームも地下になり、エスカレーターもエレベーターもついた。しかし住人の中には、大正モダニズム風の昔の駅舎に愛着を持っている人がいて、どうしても同じ建物を再建するように要求していると言う。 私はそんなものより駅ビルができて、そこに大手スーパーと銀行が入ってくれることを望んでいる。そしてできれば、昔のように桜の並木が復活すれば嬉しい。私の子供の頃、その桜並木の下の砂利道を、人力車が走っていた。 夫はいつも渋谷まで約十キロを歩いて行く。電車賃片道百九十円を倹約するためだと言う。今日は二人で往復七百六十円も払うと思うと胸が痛い、と嬉しそうな顔で言う。 私は買い物嫌いな夫とデパートを歩く趣味がない。せっかくいっしょに家を出たのに、本屋へ行くというのを幸い渋谷駅で「お別れ」して一人になる。夫は帰りは一駅手前の自由が丘で降りて歩いたのだそうだ。一駅手前で降りると四十円安くなる。 ワーカホリックというのは仕事病にかかった人のこと。夫のはウォークホリックという歩き病とケチの合併症。私は沿線にケチな客を持つ東急電鉄に深く同情している。 夜は旧約聖書の勉強の日。石川康輔神父さまが神学生二人を連れて来られる。私たちに「理想の神父」像についてインタビューしたいのだと言う。私は、よく祈る、教会の司牧を熱心にする、生涯聖書や神学を勉強し続ける、の三つを望んでいる。それに、修道院は彼らにとって一種の家庭になるわけだから、年上の神父に心を開き、優しく労り生涯面倒を見る家族の愛が溢れるように、と付け足す。 五月十一日 三戸浜。水仙とチューリップの球根を整理し、夏蒔きのホウレンソウ、セロリ、なた豆を蒔く。私の小説の題にもなっている「天上の青(ヘブンリー・ブルー)」という名の西洋朝顔も、今年は多分いい花を咲かせるだろうと思う。 私は明日、直接、日本財団に出勤するので、夫だけ一人車で先に東京の家に帰る。 着いた頃を見計らって混まなかったかどうか電話で聞くと、「お墓へ寄って帰った」と言う。父母たちの眠る墓はすぐ近くの海の見える丘の上なのだが、その墓地で私はちょうど一年前の明日、五月十二日、転んで足を折ったのである。 「明日、お墓まいりに行けないだろうと思うから、知寿子(私の本名)の足は完全に治りましたからご心配なく、って報告して来た」
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