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数年前、足や眼に障害のある人たちといっしょに外国旅行をした時、数人の若い青年たちが、車椅子を押しに来てくれた。 ローマを出る時、私は旅の途中だというのに、空港の売店でみごとなサラミを一本買い、次の目的地に着いた夜、若者たちの酒盛りの開かれている部屋にそれを持って行った。ほとんどは彼らのウイスキーのお摘みに差し出すつもりだったが、「すみません。誰かナイフを持ってたら、私に少し尻尾の部分だけください」と言ったのは、部屋に持って帰ってゆっくり「味見」だけはしたかったからである。ところが、青年たちのうちナイフを持っている人は、一人もいなかった。 聞くと旅行社が、ナイフは持たないように、とわざわざ注意したのだと言う。つまり手荷物にいれておくと、金属探知機で見つけられ取り上げられるので、そういう注意を出したのだろう。しかしチェック・インする荷物に入れて置けばそんな心配はない。 途上国ばかり歩くようになってからの私は、男がナイフを持たずに旅行することなど考えられなくなっている。中南米でも中近東でもアフリカでも、ナイフは男の命である。密林や砂漠や荒野を歩く男でナイフを持たなかったら、どうして生きて行くのだ。 ナイフは、突き、切り、削り、捌き、開き、裂き、穴を開け、こじる。すべて生活のわざである。時には、人間や野獣や爬虫類や鳥など、すべての敵対する動物を防ぐにも必要である。 私たちは孫が十二歳になった時、ナイフを贈った。もっと正確に言うと、聖書とナイフを贈ったのである。ナイフは決して人を刺すためではない。むしろ自分や愛する人々を守り、生かし、闘いや戦争を招かないようにする覚悟を教えるためであった。 先日インドシナ半島で暮らしている日本人に遇った。彼は町を歩く時でも、常時、ナイフを二本持っているという。一本は後の見えない部分のベルトに、一本は前の見えるところに付けている。見える方が危険防止力になることは間違いないが、不当に人を怖がらせないように、傍に鋏もわざと見えるように付けているという。それを見た人に、ああ、この人は山か農園の仕事をやっている人だな、と思わせるカモフラージュである。 ナイフについては、彼はこう言った。「果物は自分できれいに洗って剥かなければ、お腹壊しますからね。それに殺されるということにでもなったら、最後の生き残るチャンスをこれで試せばいいんです」 ナイフを持たない男たち。そしてナイフで果物も剥けない子供たち。彼らが平和の証だと言うのは、あまりにも地球の現実を知らなさすぎる考えだ。子供にナイフを持たせれば、すぐに喧嘩して相手を刺すだろう、と思うのも、子供に対して失礼である。 自衛のできない国や人は、世界的に一人前ではないから、迷惑な存在なのである。
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