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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: サハリン(樺太)の二泊一日(上) 新々「鮭の島」事情  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/09/14  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  北緯53度線、空の旅
 ユジノサハリンスク(豊原)には二泊したが、夜にホテル入りし、朝、空路函館に向けて帰国したのだから、厳密に言うなら、正味一日の旅だった。サハリンには邦人の観光客が結構出かけている。だが、われわれのとったルートは、日本人がほとんど経由しない方角、つまり東からこの島を訪れたのである。
 八月初旬の午後、カムチャッカの州都、ペトロパブロフスクからチャーター便でオホーツク海上空を北緯五十三度緯に沿って横断すること三時間、時差の変更ラインを二つ越えて、サハリンの北の都市、オハの空港に立寄った。「ヤク40」という年代のジェット機は給油のために着陸したのである。「オハ」とは、原住民のニフヒ族の命名で「まずい」という意味だと白人のスチュアーデスが教えてくれた。人口三万六千人、天然ガスと石油の開発基地で、パイプラインでロシア本土に送られている。なんの変哲もない原野の空港のくせに「国家機密」とかで、写真撮影厳禁とのお達しがあった。
 この近くに「オハ川」が流れているが、まずいので飲用に適さないと昔からいわれていたという。多分、石油のほかに鉱物資源が豊富な地域のせいで、水が清くなかったのだろう。サハリンを地図で眺めると鮭の形によく似ている。尻っぽの部分が二つに割れて北海道に隣接している。「オハ」は頭の先端の東側の海に面した部分にあり、ここから西に七十キロもガタガタ道をジープで行くと「タタール海峡」に出る、とロシアの情報をもとに作成されたアメリカの案内書にはある。
 タタール海峡の国際地理学会の正式名称は、われらの先祖の名にちなんでつけられた「間宮海峡」である。だが、現代ロシア人がそんな日本人名を知るわけがない。十九世紀の初め、サハリン北部の地勢は謎だった。ヨーロッパはサハリンを沿海州につながる半島だと思っていた。沿海州を領有する中国は、海をへだててサハリンという島があることは知っていた。だが日本が探検を繰り返している南樺太とは別物だと思っていた。だから当時のオランダ製世界地図には、サハリン島のほかにもうひとつサハリン半島が書かれていた。間宮林蔵は文久五年(一八○八)、樺太西海岸と対岸の沿海州東韃靼を走破し、サハリン、すなわち樺太は半島ではなく、島であることを実証した。
 ロシアが、サハリンが島であることを発見したのは、それから四十余年の後のことだ。長さ一千キロに及ぶ鮭が、北に向かってジャンプする形状の島の地図が刊行されたのは八○年代。
 シーボルトの命名により、世界地図の地名に日本人としてただ一人、間宮林蔵の名が刻まれたのである。と吉村昭の小説、『間宮林蔵』は、そういう表現で終わっている。カムチャッカからサハリンに至る飛行中、この文庫本を読んだのだが、臨場感は抜群、これも旅の妙味のひとつであろう。
 オハの気温二十五度C。快晴。そよ風。海に向かって壮大なラグーン(潟)が展開している。北の草は短い。滑走路わきの草叢には、ひな菊、ツメ草、そして名も知らぬ小さな黄色の花が……。北国の夏は蚊が多い。
「これ。サハリンでは効きめがないなあ」と同行の日下公人氏。首に吊るした、ご自慢の日本製“秘密小型兵器”が役にたたないのをぼやくことしきり。超音波を発信し蚊が人体の血を吸うのを妨げる装置とのことだが、「サハリンの蚊は周波数が違うのではないの」と私。蚊取り線香をつけたら、効果テキメン。異国の地では、ハイテクよりも伝統的な単純兵器に限るらしい。
 四十分の給油ののち、鮭の頭から東海岸沿いに南下、約二時間で州都ユジノサハリンスクに着く。「ユジノ」とは南という意で、「南サハリン市」とでも訳しておこうか。南樺太が日本領であったころ樺太庁が置かれ、「豊原」と名づけられた。ここは、サハリンの南端に近い都市で、地図で見ると二本の鮭の尻っぽの分岐点に位置している。
 樺太と千島の地誌の概略は以下のとおりである。明治維新後の一八八五年、千島樺太交換条約により千島列島全島が日本領に、サハリン(樺太)を帝政ロシアの領土とすることが決められた。それまで、サハリンと千島(クリール)は、日本とロシアが入り乱れて開発に着手していたのだ。一九〇五年、日露戦争で日本が勝利。ポーツマス講和条約で、北緯五〇度以南が、日本領樺太となった。ところが、日本の敗戦により「南樺太」はソ連領に戻り、豊原はユジノサハリンスクに、北海道稚内との連絡船の出る南の海の玄関口、「大泊」は、コルサコフと元の名称に復した。
 
北海道拓殖銀行豊原支店
 日本が南樺太を失って五十四年。でもユジノサハリンスクには、「日本」が随所に残っていた。「皆さま、ここが、旧北海道拓殖銀行豊原支店でございます」。市内を案内してくれたガイド兼通訳の朝鮮系ロシア人趙さんが、正確かつすばらしい敬語で教えてくれた。今は州立の美術館である。ハバロスカヤ通りに面した正面玄関は閉鎖され、特別展示物の看板取り付けコーナーになっている。プーシキンの童話の挿し絵展のポスターがかかげられていた。美術館入り口は、旧銀行の建物の横腹をぶち抜いて造られている。入り口前の空き地は公園になっており、チェホフの銅像があった。
「文豪チェホフの“サハリン紀行”にちなんで建設されました。帝政ロシア時代ここは流刑地でございまして……」。一八九〇年、アントン・チェホフは、「この島は地獄である。こんなところに住むなんて思っただけでも、脱走したくなる」と旅行記に記している。日本との交換条約でサハリンを入手した帝政ロシアは流刑因の労働力を使って石炭、石油、木材、漁業を起こし、これらの一次産品は、ヨーロッパロシアに運ばれたのである。
「ハイッ、こちらをご覧ください。あの木造倉庫は、日本統治時代のマル通(日本通運)が建築したものです。今でも使われています」。北の木材は寒さで年輪が密であり、鉄のように固く、しかも腐り難いのだという。日本の城を模して造られた旧樺太庁庁舎もそっくり残していた。今日では郷土博物館になっている。前庭には、二〇三高地と旅順港を壊滅させた日本の要塞砲が樺太庁時代そのままに飾られていた。砲身には「明治三十七、八年戦役記念・男爵・片岡一郎」の銘が刻まれている。まさに日露戦争日本勝利のシンボルだ。それが今もって撤去されずに残っているのは、日本語が読めないせいか、それとも、サハリンのロシア人が戦史に無知なのか……。この国の人々は、何事につけ大ざっぱではある。
 
独立論の深層心理
 州庁舎に、資源担当のクズネツォフ副知事を訪ねた。タタール系コサックの血を引いているとかで、なかなか豪快な人物だった。ロシア語?日本語の通訳を介した会話だったが、それでも結構話がはずむ。
 「やあ。日本からようこそ。初めてかね? 戦前の日本人はすばらしかったね。日本の建物と工場はすごい。今でもしっかりしているよ」
 ?王子製紙が残した機械は今でもあるのか。
 「ある。まだ、ちゃんと動いている」
 ?社会主義時代のソ連におけるサハリンの役割は何だったのか。
 「ロシアの地図を見てごらん。ウラル山脈の西側が、モスクワやサンクト・ペテルブルクのあるヨーロッパロシアだ。ここでは付加価値の高い製造業をやっていた。ウラル以西の地域はサハリンも含めて、中央指令経済のもとで、もっぱら原料をせっせと貢いでいたんだよ」
 ?今でもそうか。「いや違う。ロシアの中央政府は、少しずつだが、地方に製造業も含めて経済開発とその果実を受けとる権限を委譲しつつある。みんなもっていかれるんじゃ、開発の意欲を失ってしまうからネェ。エネルギーやパルプなど外資との合併に我々は積極的だよ。もっと日本も来てくれんかね」
 ?これだけの資源をもっているのだから、経済的には、サハリンは独立国になれるのでは……。これ「真夏の夜の夢」かしら?
 「アハッハッ。その話、とても魅力的だネ、日本もクリールの四島の領土のことばかり言わずに共同でやろうよ。日本人とロシア人があの島に一緒に住めるようになったら楽しいネエ。賢い日本人ときれいなロシア娘と結婚してさ。すばらしい子供が生まれるぜ」
 「ある日突然、モスクワに対し独立宣言をする。ただちに日本に宣戦布告する。そして一日で降伏する。そうすれば、極東ロシアは自動的に日本領になり、経済は大いに繁栄する」。これは極東ロシアに実在する読み人知らずのブラックジョークだ。
 



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