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最近時々不思議に思うのは、皆どうしてたかが国旗と国歌くらいのことに、やたらに真剣になり、卒業式をボイコットしたり、自殺する校長先生が出たりするのだろう。 私は一年間に「国旗と国歌」に関して頭を使うことは二、三分しかない。私の勤め先が国会議事堂と比較的近い所にあるので、その時来日している国賓の国の国旗が日の丸とともに掲げられているのが否応なく見えるからだ。一年のうち、そうした国旗が出ている日は四分の一くらいあるような気がする。ところがはずかしいことに、私はほとんどの国旗がどこの旗か知らない。 正直言って、国旗も国歌も、私の人生でまことに瑣末なものである。目くじら立てて論議するものだと思えない。ただ国旗と国歌のない国はないし、それらの国の実に多くが、その国旗のもとで内戦で殺し合い、汚職をし、身内びいきの官僚機構を確立したりしている。 この間知ったのだが、ピルの解禁が望まれたのは、日本の中絶が年間五十万だからという。実際はもっと多いだろうが、年間五十万人もの単位で公然と人の命を奪うことが合法的だとされている例は他にない。自動車事故だって死者の数は一万人前後だ。戦争が終わっても、私たちはまだ最低で年間五十万人は、平然と殺し続けてきたのである。中絶された赤ちゃんの総数は戦後一億以上とみている産婦人科医もいるが、公表通りの年間五十万人としても五十年以上続ければ、最低で二千五百万人の命は抹殺されたことになる。日の丸は、戦争中ではなく、戦後に数の上で比べものにならないくらい多く血塗られてきたのである。 戦争中、私たちは「君が代」をもっと頻繁に歌わせられ、天皇陛下は神だと教えられたが、私の学校はカトリックの信仰を持っており、私は子供だったけれど、漠然と、本当の神と地上の神とは違うものだろうと思っていた。どんな教え方をされても、当人、それから親に信念があれば、どんなにでもひそかに、賛成も、同調も、抵抗も、修正もできる。「君が代」の君は不特定の「あなた」のことだと思っていても、誰にもわからない。 私の知人の旅行社の社長は、私が毎年春にやっている身体障害者とのイスラエル旅行についてきて世話をしてくれる。その人の誕生日は四月二十九日、昔の天長節(天皇誕生日)で、たいていその旅行期間に当たる。 その日になると、私は皆と昔の天長節のメロディーで、「今日のよき日はオイカワさんの、生まれたまいしよき日なり」と歌う。昔は「オイカワさんの」の部分が「大君の」だったのである。これは和製誕生歌として最高のもので「ハッピー・バースデー」などよりずっと民族性があっていい。もちろん若い世代は知らないから、老世代が歌をリードする。 一年間に数分しかタッチしなくて済むことに、そうそうめくじらたてるより、身近にいるお年寄りの毎日のおしめの替え方の方を論議する方がずっと重大ではないか。そのうちに国民の心にひどい違和感のあるものなら、国歌でも自然に消えてなくなるだろう。
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