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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ゆるやかな変化?2000年 字面気に入った  
コラム名: 自分の顔相手の顔 301  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/01/11  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   年末にワープロで翌年分の原稿を書いていたら、まず新しい日付に馴れる必要があった。二〇〇〇年と書いて、私はすぐこの字面が気に入ってしまった。一九九九年なんてなんと古臭い感じの年を、書き続けていたんだろう、という気さえしてくる。
 しかしつい一年前一九九九年の始めに、私はこの年の表記を好きだった。年旧るということは、どこかに落ち着きが出る。茶筒をとんとんと叩くと、それなりに入るべきお茶がしっとりと入る。あの安定である。陶器でも、新品はどんなに味があっても落ち着かない。使いこんで行くうちに、深みが出て来る。そのゆるやかな変化の謙虚さである。私は年号にもそんな年月の重みを感じて一九九九年を愛していたのかもしれない。
 しかし新しい千年を目前にした十二月三十一日のニュースの中で一番大きく感じられたのは、エリツィンの辞任ではなかった。もう一週間以上もハイジャック犯人グループに乗っ取られていたインディアン航空の乗客が釈放されたのである。
 時々腰痛のある私は、長距離の飛行機と手術が怖い。手術の後、数日寝ていることと、飛行機の中に何日も拘束されることに果たして耐えられるかと思うのである。
 ちょうど私はシンガポールにいたので、土地の新聞を毎日読んでいた。乗っ取られた飛行機の内部の臭気はひどいものだ、という報道があった時は、ほんとうに心を傷めた。もし私が中にいたら、最低限の理性や落ち着きや他人に対する思いやりを保てるだろうか、と私は怖くなった。その背後には、私はだめだ、という答えが見え透いていた。自分が辛くなると、私のエゴはむき出しになって、自分一人がよければいいや、という行動に走る。
 新聞の中では、六十一歳のインドの母親の談話が心を打った。ハイジャックされた飛行機には、彼女の息子が新婚旅行で乗っている。新婚旅行の男性が一人、初めの頃に撃ち殺されたが、その人の母ではなさそうである。とにかくこの母は、二人が帰るまでは食べない、と息子夫婦を案じて断食を始めたのである。しかし高齢なこともあって、母の衰弱はひどい、と記事は書いている。
 そんな新聞を読んだ後で、私たちは家族で食事に出かけた。ふと、インディアン航空の中で、劣悪な状態で生きている人もいるのだから、たまたまそのようなくじを引かなかっただけで自由にこうして新年を迎えられる私たちが、ごちそうを食べては悪い、という思いが一瞬私の胸に浮んだが、しかしそのことのために、家族の計画をやめにすることはまた不自然だったので、私はそんなことは口にも出さなかった。
 大晦日の深夜、CNNやBBCはライヴで釈放の光景を写した。八日と一夜ののっとり劇は意外と、さっぱりした様子で終わった。乗っ取り機から降りてくる乗客の足取りはしっかりしている。一人のイスラム教徒の老人は、飛行場の大地に座って感謝の祈りを捧げていた。
 



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