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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 「ティト家」の人々  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1997/08/05  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1997/09  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   日本人が貧困や飢餓、病気になってもいかなる治療も与えられずに捨てておかれること、危険を承知の重労働、生まれた土地から一生どこへも出ない人々、などのことについて全くわからなくなり出したのはいつぐらいからだろう、と考えると、一つの画期的な時期は一九八三年にNHKの「おしん」が大ヒットをした頃からではないかと思う。
 私は早起きで、朝のあの時間にはもう仕事を始めているので、「おしん」についてはよく知らないのだが、その当った理由の一つは、その話の内容を全く自分の痛みとはせず、ひとごととして見られたからだろう。それと同じことは「寅さん」シリーズにも見られるのであって、あれを楽しんで見られるという人はすべて家の中、或いは一族の中に、あの手の困り者がいない人である。「おしんしは東南アジアや中近東の国でも当ったそうだが、それはもしかすると、「身につまされて」見た視聴者がいたのであろう。
 少くとも阪神・淡路大震災の前には、東京の有名な大学には、教授が「君もし実験の最中に停電したらどうする」と言うと、「先生は頭が古いなあ。今もう停電なんかすることはないんですよ」というような学生がゴマンといた筈である。すると戦前・戦後の日本の状態を知っている世代や、或いは途上国を歩いて、停電がどれだけ日常茶飯事のものか知っている人々は、苦々しく思いながら現実には日本の優秀な電力会社のおかげで停電がないのだから、ムッとしておし黙っていた。阪神・淡路大震災でやっとこうした世代は溜飲を下げた筈である。
 世の中には、向上心を利用して、世界の流れの最先端に遅れまいとする気持もあるが、私のように今やっきとなって貧困と繋っていようと思うのは、「おしん」をヴァーチャル・リアリティとして楽しめる世代がふえすぎたからである。
 この七月初め、ボリビアに行った時、私は公用と私用と二つの目的を持っていた。「会社の仕事」としては、日本財団が日本ボリビア交流会館の建設に二十万米ドルを出したので、その進捗具合を見る、ということがあった。私はまともな意味で「お金を出したら、やかましく口は出さないがしっかり見届ける」ことは必要だと思っているのである。
 しかし私にとって同じように大切だったのは、私が働いている小さなNGOのグループ、「海外邦人宣教者活動援助後援会」がこの二十五年間、サポートし続けているいくつかの事業を見ることであった。
 約三年前に、私はボリビアを訪ねた。私がよく知っているサレジオ会の倉橋神父を通して、私たちのグループは、神父の友人のオクタヴィオとヴィセンテという二人の神父の活動を支えることになった。
 それ以前に、私はヴィセンテというイタリア人の神父を写真で知った。一人の端正な顔立ちのミドルティーンが、質素な部屋のベッドに寝ていて、一人のヨーロッパ人の中年の男性が、寝ている少年の足許に腰かけている写真であった。このヨーロッパ人がヴィセンテ神父であり、ベッドに横たわっている少年は町で拾われた末期の結核患者だった。写真の裏には「少年の死の一ヶ月前に撮影」と記されていた。
 その時、ヴィセンテ神父は倉橋神父を通じて、そうした結核患者の食事代として、五十万円ほどを貰えないだろうか、と私たちのグループに頼んで寄こした。そしてそれが、神父と私たち海外邦人宣教者活動援助後援会とのつながりの始めだった。団体の名前が明らかにしているように、私たちの組織は本来、海外で働く日本人の神父と修道女に活動の資金を送ることにしていたが、それは憲法ではないのだから、という理由で、今までにも何度か拡大解釈をして来たのである。
 三年前にボリビアに行った時、私はヴィセンテ神父が結核患者たちと暮している「ティトの家」に行った。ティトというのは補佐司教の名前で、ヴィセンテ、オクタヴイオ、ティトの三人は、若い頃、ローマの同じ神学大学で学ぶ神学生だった。ティトは二人のイタリア人の同級生に、将来、自分の国であるボリビアに来て働いてくれないか、と言ったという。
 私が訪ねた頃、「ティトの家」には、二十人近くの結核患者が暮していた。彼らは初めは病院に入っていた。二、三ヶ月で一応の治療は終って退院するのだが、状態のいい患者でもすぐ働きに行って収入を得るというのは無理だった。それに多くの患者たちは病気になると家族に捨てられてしまっているから、退院したその日から住むところがない。彼らの中には、死んだと知らせても、家族に来てもらえない人も多い。家族にすれば行く金もお棺代もないから、黙って見捨てているのである。ヴィセンテは町中の一角に同級生のティト神父の名前をつけた家を借り、そこで患者と暮すようになった。
 家には母が必要だった。イタリアから神父の叔母さんがやって来て、患者たちのママになった。患者の中には一日寝ていなければならない人もいれば、軽作業をしている人もいた。住居といっしょに作業場もついていた。ボリビア独特の華やかな赤黒ピンクなどの色が目立つ布を使って、袋ものなどを作っている人もいたし、キイホルダーや引出しなどを作る木工をやっている人もいた。
 私は中庭のような所で神父や患者といっしょにご飯をごちそうになったが、その時、神父が言った言葉で未だに記憶に残っているものがある。
「イタリアにいる時から、私たちはいつ不意のお客が来ても困らないように、一人分の席を空けてありました。今、ここでもそうしています」
 その不意の客は、もちろん友人の場合もあるだろうが、しかしこの国ではもう少し切羽詰った意味あいを持っていた。それは門前で倒れている人の場合もあれば、退院して来て働けない患者の場合もあった。神父の食卓は決してそういう人々を拒否しないということだった。
 当時台所には、赤ん坊連れの女が住み込みで働いていた。男に捨てられたか、夫と別れたか、とにかく乳呑児を抱えてお金のない女は働く場所もない。叔母さんは彼女を引き受け、赤ん坊は台所の一隅におかれて、絶えず人々の目のある所で大きくなっていた。
 三年の年月を経て、「ティトの家」はかなり整備され、屋根なしの中庭を利用していた食堂には屋根もつけられていた。叔母さんも健在だった。
 私は初めてティト補佐司教にも会った。太った聖職者も多い中で、ティト、ヴィセンテ、オクタヴィオの三人は、皆痩せていて、どちらかというと結核タイプだった。
 神父たちは多くを語らない。しかし時々、彼らの周囲が語る断片的な話を総合すると、一つの想像図は浮かび上って来る。ヴィセンテは、ボリビアに来る迄も、来た後も神学を続けることを考えていた。学僧になることは、イタリアでもボリビアでもどこででもできる、と考えたのかも知れない。しかし今の神父を見ると、神学の勉強を続けることは事実上不可能という気がする。多分ヴィセンテは親友ティトと死んで行く少年や結核患者のために、神学を捨てたのである。
 その日神父の手には、ほんの少しサイズが大きすぎる服を着た五歳くらいの女の子がいつもまつわりついていた。一般にボリビアの子供たちは人なつっこく、初めての人にも必らず頬をすり寄せて挨拶し、すぐ手をつなぎたがる。しかしこの女の子の神父へのまつわりつき方は異常だった。
「この子の母親はどうしているのですか」
 と私は叔母さんに尋ねた。
「この子のママはここで働いていたんですけど、時々、ふっといなくなっては、又帰って来るんです」
 もちろん彼女はシングル・マザーだった。いつもこの叔母さんがしているように、すぐには働けない子連れの女として、台所で働かせてもらうようになったのだろう。しかし彼女は時々、数日間ずついなくなった。男と会っているのか、麻薬か酒のように、「ティトの家」にはないものを求めて脱走するのかわからない。そして今度も又、七日目というのに、この子の母は帰って来ていないのだった。
 そんな情緒不安定の母よりも、いつもいつも家にいてくれる神父をこの子は父と思いたいのである。だからこの子は、私たちが話をしている時は、ヴィセンテ神父の膝の上にいて、叔母さんが私たちのために焼いてくれた大きなお菓子を神父に口に入れてもらっている。神父が立ち上れば、抱いてもらっている。神父が両手を使うので抱いていられない時には、彼女は立ち木に寄りそうように神父の傍に立って、ズボンの布につかまっていた。
 ヴィセンテ神父は間もなく私たちを小型トラックに乗せて、自分のやっている幼稚園に出発した。その途中に神父は、バリオ・ミネロと呼ばれている地区の墓地の前で車を止めた。
 鉱山が閉鎖されて行き場のなくなった人たちを、政府が集めて村を作らせたのだが、仕事を見つけるのは容易なことではなかった。何とか町で働ける口を見つけようとして出て行っても、思うような職はない。自暴自棄になってヤケ酒を飲んだり、悪いことをして得た金で麻薬を覚えたりする。そのうちに、手近かにいる女と親しくなって、家族へは送金もせず音信不通になる。手紙を書こうにも、字の書けない人もいるのだ。
 神父はこういう移住者を、「土地も郷里も文化も同朋親戚も愛も失った人々」だという。彼らがこの地域に来て得たのは、差別だけだった。
 神父が車を停めたのは霊園の入り口だった。手前に子供の墓が並んでいる。見渡す限りの十字架であった。十字架は花を捧げられたもの、造花が色褪せたもの、傾いて倒れそうなもの、さまざまであった。あまりたくさん子供が死ぬので、埋めようとすると、既にお棺が入っている場合もあると神父は言う。そんな時にはどうするのですか、と聞くと、ちょっと脇を掘ってみて、空いている空間があるとそこに入れるのだと言う。しかしもしかすると子供たちは淋しくないかも知れない、と私は思った。子供たちは総じてくっつき合って寝るのが好きだ。窮屈だなどと思わず、誰かの体に触れていると安心する。
 神父は更に墓地の奥に進んで行った。
「この前ソノさんが来た時に会った結核患者の一人が三十三歳で亡くなったんです」
 私はすぐに彼の顔は思い泛ばない。私が「ティトの家」でいっしょにご飯を食べ、作業場を見せてもらった時、そこには二十人近くの患者がいた。一人だけは白い肌をしたコーカシアンで、後は皆私たちと同じような小麦色の肌をした山の人たちだった。
 彼らは病院から追い出された後、働けない体をかかえて、やっとヴィセンテ神父の許で安住の地を見出した。墓地の奥に眠るルーカス・スルカ・カルニセルは結婚し、四人の男の子まで得た。しかしこの幸福も長くは続かなかった。
 臨終近く、彼はヴィセンテ神父に言ったと言う。
「四人の子供たちの一人でも神父になってくれれば、私の人生はしあわせです」
 それはささやかで、ひたむきな願いだった。自分の人生を救い、短い生涯を納得できるものにしてくれたキリスト教の信仰を、四人のうちの一人の息子でもいいから人々に伝える人になってほしいというのが、この若い父の願いだった。
 私たちは墓の前で主の祈りを唱えた。死者はいつも妻と息子たちと友人たちの心の中にいる、と墓碑には書いてある。命日は一九九六年の九月一日であった。
 幼稚園では百人以上の子供たちが、私たちを待っていた。ちりめん紙で作ったスカートや髪かざりをつけてダンスを見せてくれるのである。しかしもちろん本当の目的はお遊戯ではない。その後に出るお菓子にありつくためである。
 ここにはいつも三百五十人から四百五十人くらいの炭鉱離職者の子供たちがいた。おやつは皆に出すが、そのうちの四十五人には三食食べさせる。親が食事を与えられるような状況にないからだ。今は週に一回だけ水曜日にお肉が出る。しかし経済的にそれでやっとだった。そんな栄養状態だから虚弱な子供に親の結核がうつりやすい。
 特効薬と言われているリファンピシンを送りましょうか、と言うと神父は首を横に振った。末期の結核患者には、もう薬を受けつける力がないのだと言う。私は後で神父に肉の値段を尋ねた。肉は一番安いのが一キロ三百円、次のが四百円、かなり上等が五百円。私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会が年に十万円も送れば、子供たちはたちどころに週に三回か四回は肉が食べられる。しかし子供たちの栄養を改善するのは容易なことではない、と神父は言う。家で飲ませるようにと粉乳を配ったこともあった。コップ一ぱいのお湯にスプーン山盛り一ぱいというように量も指示した。しかし貧しい親たちは、粉を倹約して長くもたせようとして薄いミルクの溶き方をしたので子供たちの栄養は少しも改善されなかった。
 私たちは一軒の家を覗いた。三日前に夫を失った未亡人が、幼稚園に付属して建てられた一間だけの家に子供たちと住んでいた。この人の夫も三十三歳だった。三十三歳が六人も死んだ。この未亡人には夫の写真はたった一枚しか残されていない。白黒の写真が赤ちゃけたものだ。こういう建物をヴィセンテ神父はお金を集めると一間ずつ建てて行く。行き所のない人を住わせ、子供たちの食事を考え、未亡人に何か少し仕事を与える。
 ヴィセンテ神父はその日、幼稚園の母たちと私たちを前に語った。
「私たちは貧しさから、みじめさを取り除くために働いて来ました。しかし私たちは貧しさの価値も伝えて行きたい……団結、友情、理解などです。
 私たちは子供の涙を拭いたい。ここでは子供の悲しみが大きすぎるからです。貧しさの中の力は能力です。それだけは自分の力で得たものです。
 この幼稚園は貧しい子供たちだけの施設です。子供たちは学校で五年間学ぶと、手に職をつけるため、生き伸びるために働きます。子供たちは大きな技術を開発したり、国の発展に貢献したりはしないでしょう。でも彼ら自身と他人を愛する力を知る人にはなるでしょう。
 この幼稚園はきれいなものです。しかし神の摂理はもっと美しく大きい。元気になった時、皆ここのことを思い出して下さい。感謝すると少し元気になるでしょう」
 



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