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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 権利と自由?「生む生まないは女の自由」か  
コラム名: 自分の顔相手の顔 145  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/05/25  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   男女同権と言いながら、時々不思議なことがある。その一つが「女性のための」という前置きがある催しが行われることだ。
 私はこれでも徹底した男女同権論者だと自分では思っているから、こういう女性だけの催しには出ないことにしている。ピクニックでも講演会でも研究会でも遠乗りでも、何でも男女両方がいた方が楽しいではないか。そして女性だけしか関係のないこの世のことというのは、本当はないのである。女性が苦労していることなら、男性もそれを知るべきだし、男性が関心を持つことなら、女性が同じレベルで係わったらいいと思うのである。
 男女同権を言いながら一番おかしいのは、経歴に女性の場合だけ年齢を書かないことだ。男も女も一斉に年を書く習慣をやめるならいい。しかしついこの間、「ソノさんの英訳の本にはお年が書いてありますなあ。珍しいですねえ」と言われた。
 年を隠すということは、女の色気で、相手の関心を引こうということだろう。私は色気というものがなくていいと言うのではない。むしろ何歳になってもせいぜいお見苦しくないように身だしなみを整え、いつも姿勢を正しているようにしようと思っているのだが、それがあまりうまく行っていない、と感じてはいる。
 しかしどう考えても年齢は隠すものではない。今何歳の生を生きているか、幾つで死ぬかは、自然の時の流れそのものである。問題は、その与えられた年と健康を、その人なりにいかに真摯(しんし)に使っているか、ということだけだ。
 女性が男と同等に扱われるには、理論闘争の点でも同格になる必要があるだろう。
 胎児の段階で子供に異常があるかないかを調べる出生前の検査を最近はためらう人が増えた。もし異常だとわかったら中絶するなどということが考えられないからである。それは「いらない子」は「始末する」という意味になり、これほど恐ろしいご都合主義もない。
 しかしそれなら一切の中絶を禁止するという人道上のルールを確立するかというとそうでもないのである。「生む生まないは女の自由よ」という言葉が、今でも自由な女性の条件のように繰り返されている。
 いったいどっちにするのだ。
 「障害のある子でももちろん生むのが当然」に私は全く賛成だが、それなら「すべての子供は生まれる権利がある」のも本当だろう。「生む生まないは女の自由」ではないのである。「障害のある子を中絶をするのは人道に反する」のに、「健康な子は中絶をしてもいい」のでは理屈が通らない。
 しかし「障害があっても生むべきです」と、「生む生まないは女の自由です」との二つの言葉を平気で並べる人はけっこう多い。この二つの言葉の間には、全く理論の一貫性がない。そんなことを言っている間は、男女は同権でも、どうも女性はよくわからない、と思われ続けるだろう。
 



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