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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: それで当たり前?ベラルーシ訪問記  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1999/02/08  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1999/03  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   チェルノブイリ原発事故の後の様子を見に行くことになったのは、私の勤めている日本財団が、事故直後から当時0歳から十歳までの汚染地域の子供たちの健康診断を、五カ所のセンターで続けて来たからである。原発は大丈夫だとか、原発は危険だからすぐやめろとかいうことを決定するためではない。まず的確なデータをもとに、正しい診断をして被曝した子供たちに長い年月に渡る治療法や健康指導をするためである。
 一口にセンターを作るなどと言うが、それがどれほど人間的に大変な作業だったか、本当はそちらの方が、小説家にとっては関心のあるドラマだという気もするのだが、それはベラルーシと日本の間に、いい人間関係を構築された長崎大学医学部の山下俊一教授や、先生を支えて十年間すべての雑用を担って来た笹川記念医療保健財団の槇洽子さんしか、語る資格はない、という感じである。
 事故が起きた一九八六年当時、現場はソ連領であった。ソ連邦が解体してベラルーシが独立したのは一九九一年である。その間同情的に言えば、どちらのお国も「人のことどころではない」という面もあったことだろう。何かをしたくとも金がない、自由経済への移行の知識もなかった。さらに金と知識がないだけでもなかった。どこでも社会主義は、封建主義と権力主義のそっくりさんだから、ベラルーシの社会には自分で自発的に考える習慣も勇気もほとんどなかったようである。
 最初の五年の継続調査で財団は十六万人の子供たちの検診をしたのだが、ベラルーシのゴメリ州に子供の甲状腺異常が増えているので、そこだけ健康診断を継続することにした。事故後遺症の正確な報告は医師でない私にはどうもむずかしい。通常百万人に一人という子供の甲状腺ガンがこの地方では一万人に一人と言われる。この地方は元々内陸で、ヨード分を含んだ食物の摂取量が少なく、放射性の物質を受けた時、甲状腺の防御力がない、という状況もあった。また甲状腺異常は家族性の要素もある、という話もちらと聞いた。事故のためにあちらでもこちらでも子供がばたばた死んだという気配ではないのだが、何回も手術を受けなければならない子供がいるということは、家族にとっても当人にとっても憂鬱極まりない大きな不安だろうし、事実、中には、地元の医師から受けた手術の結果があまりきれいに上がっていず、そのまま行くと、最悪の場合もう取りきれなくなった腫瘍が段々大きくなって行き、四十歳くらいで窒息して死亡する危険も予測されるという話もあった。
 しかし私が今日ここで書き留めておこうとしているのは、「暮らし」の話だ。ベラルーシの大地のあちこちで見た人間の、原点的暮らしの現実の姿である。その方がいつも人生の脇筋ばかり見つめて書いて来た私らしいレポートになりそうな気がするのである。
 
 私自身は旅を始めてすぐ、心の中で「それで当り前」と呟く癖がついていた。はっきり言葉に出して言ったわけではないが、絶えず心の中で「それで当り前」と呟いているのに気がついたのである。
 ベラルーシのゴメリ州知事の部屋で、私たちはこれは一体どこの国の地図だ、と遠目には全く姿形を理解できない地図を見せられた。それはベラルーシの地図ではあるのだが、放射能の強さを等高線と同じやり方で示した地図である。その等高線が、全く不思議な入り組み方をしている。チェルノブイリの近くでも意外なほど汚染度の弱いところもあれば、かなり遠くでも強い反応を示しているところもある。風向きで、このようなばらつきが出たのだが、この事実は、当時から言われていたことだ。ただ現在では事故現場から「三十キロ・ゾーン」と呼ばれている範囲の住人がすべて強制的に退去させられて、そこは無人地区として残っている。
 この地域は今でも放射能が他の地域より強烈で、私たちのように特別の許可証を持ったグループが警察のパトカーつきで入る他はないのだが、それでも行って見ると、全く完全に無人なのではない。汚染地域として人が強制的に引き上げさせられてから後、そこは自然保護地区に指定されたので、一種の動物実験が行われているのである。
 まず実験農場では馬やイノシシや羊が飼われている。狼はうんと増えて、猟師によって間引きしなければならないほどになった。狼は年間一トンもの肉を食べるし、頭数が増えて餌が少なくなれば実験動物や近くの村で飼っている豚を襲ったりするようになる。
 バイソンは人工的に持って来たというが、これも数百頭単位で元気である。保護地区の管理事務所は、戸外に干し草を積んで、一種の餌づけをしている。そこに肥り返った数十頭が群れをなして食べに来ている。私たちが現場に入ったのは二月の初めで氷点下の極寒期だが、自然の動物たちの生きる力というものは偉大である。
 三十キロ・ゾーンの中の家は、すべて屋根は落ち、窓枠ははずれ、ガラスは割れ、廃墟の詩を歌っている。家も顔を持つと私は感じるのだが、どの家も眼は虚ろで、灰色の空の下で孤独な荒野の風に吹きざらされている。
 学校は鉄筋建ての立派なものだが、二階に上ってみると、散らかりようはただごとではない。民家も学校も、強制退去が命じられた後に盗みや略奪に遭っているのである。
 すべての天災や人災は、普通は盗みと略奪の好機だということに古来相場が決まっている。阪神・淡路大震災でそういう犯罪が皆無に近かったのは、住人のモラルが特に高かったからだけではないと思う。第一の理由は日本の国力を誰もが信じていて、略奪しなくても近く救いがあるだろう、盗めば警察の力はこういう場合でも壊滅してはいないから、後で刑事上の罪に問われるだろう、と考えたからである。しかし国家と社会が貧しければ、汚染地域にでもどこにでも入って行って、何でも役に立つもの、ガラスでも椅子でも板でも、使えるものは取って来よう、と人々が考えたとしても、これまた「それで当り前」だと私は思うのである。
 学校の二階の廊下には、プラスチックの板に写真を焼き付け短い経歴を記した肖像板が散らばって人々に踏みにじられていた。壁にもこうした写真が数十枚、飾られていたのだが、或るものはそのまま壁に残り、或るものはこうして廊下に落ちて、侵入者に踏んづけられたままになっていたのである。
 彼らはすべてソ連時代の国家英雄だそうで、子供たちの修身的教材として使われていたのである。英雄の中には私よりほんのわずかしか若くない人もいて、社会主義の戦いの中で早々と死んでいる。
 先刻、無人の地域だと書いたが、実は戻って来て住んでいる人もいるのである。これが同行の若い日本の記者たちには驚きだったようだ。「だって危険で、規則違反なんでしょう?」というわけだ。若い人たちは、意外と「当局」の命令には誰もが素直に従うものだ、と信じているのである。
 しかしロシア文学の周辺世界では、人間は決してそんなに素直ではない。眼に見えない放射能の危険より、今までどうにか成り立っていた生活の方がずっと大切なのである。
 危険を承知でも、今日生きるためには汚染された地区に住んで、汚染された食品でも食べなければならない。これがまた日本にしか住んだことのない日本の若い人にはなかなか理解できないのである。
 貧困の条件の一つとして「選べない」「待てない」ということは大きな要素だろう。他のやり方で生活は成り立たないのだ。蓄えがないから、しばらくどこかで様子を見る、ということもできない。
 もう夕暮れも迫った頃、突然通りがかりに訪ねた家には、入ると初め馬の匂いがするような気がした。家はごたごたと飾りつけがあって、決して貧乏という感じでもないが、奥から出て来た白髯の老人は九十二歳になるロシア正教の司祭だった人で、老妻と娘夫婦といっしょに住んでいるという。馬の匂いだと思ったのは、老夫婦の部屋から発するおしっこの匂いであった。
 老妻はリュウマチで小さく曲がった手を握り合わせてほとんど眼が見えない。あちこちに白内障の人を見かけるのだが、事実上手術のできる態勢にないのである。
「どうしてここへ帰って来たのですか?」
 と誰かが尋ねると、
「何となくそうなってしまった」
 という返事だったそうで、多分これ以上に自然な答えはないだろう。別にこの家ではお茶一つごちそうになったわけではないけれど、二十人くらいの人がドヤドヤと土足で踏み込んだのも申しわけなくて、何か一つお土産をと考えているうちに、「くれるなら貧乏をしているので金がいい」とはっきり言われたのには驚いた。
 そこで私が差し出したのは百万ベラルーシ・ルーブル。恥ずかしい話だが、日本円で五百円に少し欠ける。ベラルーシでは二十四万ルーブルが一ドルなのである。この老夫妻は一月二人で二百万ルーブルで暮らしている、と言った。つまり一人が四ドル(約四百五十円である)で食べているということだったので、私は当惑しながら夫婦の食費半月分を手渡したのである。
 私はその金を老人の上着の裾のあたりにすべり込ませた。婿という粗野で陽気な中年の男に見つかってとられてはいけない、と思ったからなのだが、同行者の観察眼によれば、あの婿はアル中らしいから、きっと老人から金を巻き上げて飲んでしまうだろう、ということである。私が老人に「あなたの奥さんはきれいな方ですね」と伝えてもらうと老人は「そうだ」と言い、同じことを眼の見えない指の曲がった老妻にも言ってもらうと「そんなことは言われなくったってわかっている」と宜うたよしである。およそいじらしくもなく、慎ましくもない。「名もなく貧しく美しく」という映画の題名くらい日本人の認識を狂わせた元凶もないので、世界中の貧しい人たちは、もう死にかかって口もきけない状態だったり、或る程度の教育のある人たちは別として、ほとんど例外なく「名もなく、狡く、しつっこく」が普通なのである。貧しくなればなるほど、強引に金くれ金くれと喚き、与えてもありがとうとは言わない。「そんな人も当り前」なのである。
 もちろん患者を治したい熱意の結果なのだが、医師とてもその例外ではない。日本財団が買って送ったこの機械が古くなった、あの機械と試薬も足りない、と本来なら自国の政府がやるべきことを、いささかのためらいもなく要求し続けて「当り前」なのである。
 ロシア領に少し入ったザイミッシという村では、父が靴の修理をしており、母が郵便配達をしているという一家を訪ねた。十四歳のナターシャは一九九〇年と一九九一年の二回、甲状腺の手術を受けている。被曝者としてのナターシャの年金は日本円で七百五十円ほど、食費が月に千二百円ちょっと出る。ところが、去年この村が非汚染地区に指定されてしまったので、今は食費だけしかもらえない、という。ロシア政府もお金がなければ、少々の汚染は眼をつぶって被曝者救済の予算を減らすことで、経済の重圧を逃れようとするだろう。背に腹は替えられないから「それで当り前」なのである。反対に患者たちの側からすると、被曝認定の書類をもらうのに、恐らくすったもんだがどこにでもあったであろう。どこの土地にも、汚染と認めるかそうでないかのボーダー・ラインという地区があるものだから、そこに住む人たちにとっては認定されるかどうかが、その後の補償に大きく響いて来るはずだ。中々認めて貰えないのを、地区のなんとか委員会の誰それさんに頼めば出してもらえる、という噂があったり、そのための裏金が動くことも当然あったろう。もちろん何一つ根拠があるわけではないのだが。
 この家では食べるだけに月七千三百円余り、燃料費に七百三十円はかかるという。生活費を補うために、土壌の汚染も心配される庭で、カブ、ニンジン、キュウリなどを作って食べている。キノコは一番汚染されやすい食べ物だと言うけれど、それも採って食べている。他に鶏と豚を飼っている。去年八月のロシアの経済崩壊以来、生活はめちゃくちゃになりました、と母親は涙を流す。
 現在世界的に難民という資格が一つの業として成り立っている。難民は、難民の認定を受け、キャンプの中で暮らせば、医療はただ、基本的な粉、油、砂糖といった食料品、燃料などが支給されるから、生きる基本には困らない上、しばしば周囲の貧困な農村より、難民の生活の方がきれいで豊かで安定している、という矛盾が出る。
 それと同じように、新たに「被曝者業」という職業が出ても、これまた当然なのである。事故当時、消火作業などに従事して亡くなった人たちの家族が移り住んだ郊外の村の家などは、私たち日本人グループの誰もが羨んだほどの大きな家であった。同じ村で昔ながらの質素な家に住む人たちとの間にも、一種の格差が出て来てぎくしゃくしているという話も出た。
 ここの小学校ではしっかり者の女性校長先生が「事故の後遺症として血液の病気も増えていますし、心臓などの疾患も多くなりました」と力説した。子供の一人が白血病で、一人が血友病だという。白血病は確かに事故と関係あるかもしれないが、血友病は違う。そういう形で、何でも事故に結びつけようとする姿勢が見えるのだが、人情としては「そうしたくなるのも当り前」であろう。
 しかし多くの被曝者の家庭は、私たちが立ち寄るというので、部屋を掃除し、人形や造花で部屋を飾り、私たちが食べ切れないほどのごちそうを振る舞ってくれた。これも私たちが忘れかけていた素朴な人間の営みであった。つまり普段質素な生活をしていればいるほど、祝いの日には「腹いっぱい、テーブルに載り切らないほどのごちそうを作って食べる」という素朴な喜びや厚意の表現があったはずである。今のように「甘いものは肥るから客も食べないだろう」などと考えるということ自体がもう衰弱した思考を示しているのである。その「当り前だけれど、太古以来の素朴な接待」を受け、貧しくても躾けをきちんと受けた優しいベラルーシの娘たちにたくさん会えて、私は幸福だったのである。
 最近のマスコミの言葉づかいの中には「事件の風化」ということをその場その場で気楽に使う人がいる。喉元を過ぎて熱さを忘れるのは悪いことだ、という姿勢で書いたり喋ったりしているのだろうが、すべての人生の様相は風化して当然だろう。風化しか人の心を救う力はない。被曝した若い娘たちに幸福な生涯を送ってもらうには、病気が治まり事件の記憶が薄れる風化が絶対の条件だ。だから私は「風化して当り前」と思う。この手の事故を起こすといかに高くつくかという経済的な判断や、財団のやっている健康診断などは、科学的データによって十分継続していけるのである。
(九九・二・八)
 



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