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一九七五年、私は北京の人民大会堂でとう小平という方に会った。 と言っても、少し離れた所から、黙って姿を見ていた、と言う方が正確だろう。私は日中国交回復を記念して日本政府から初めて北京に送られた文化使節団の末席にいた。末席というのは卑下ではない。日本を出る時、二十人以上の使節団の席順を中国側の要請によって決めたのだが、これは外務省の担当の方の言葉で「日本国籍を取得した順序」つまり年齢順ということになった。当時は私も一番若かったのである。それでも四十歳以上だったのだが……。 少し脇道に入った話をすれば、それまで私は中国へ入ることができなかった。行きたかったが、自費で入ることは、或る時期から許されなくなっていた。中国は日本の作家を優遇したが、それは丸抱えという感じのもので、その手厚い待遇を受けて中国に旅行したり、滞在したりした作家たちは、中国に対して褒めるか黙るかしかしなくなった。批判を書いたら、友好を目的とする団体の人に文章の改変を命じられたという人を知っている。 出掛ける前、世話をしてくれる旅行社が一枚のパンフレットを寄越した。そこには、今中国は発展途上の国で一生懸命働いているところなのだから、地味な服装で行くように、と書いてあった。それを読んだ時、私はそれこそおせっかいなことだ、と感じた。私は日本人であって中国人ではない。中国のやり方に従えなどと言われる筋合いはなかった。私はトランクの中身を、急遽それまでの実質的なものからきれいな色のものに詰め替えた。 吉川幸次郎氏を団長とする日本側には山本健吉氏などの文学者や、中国語のできる方も数人おられた。人民大会堂での会見の折、山本氏はとう小平氏に「今両国の友好が言われている時に、『白毛女』のような反日的な芝居がまだ上演されているのはどうかと思いますが」ということを言われた。通訳がそれをとう氏に伝え、とう氏がそれに中国語で答えた。通訳は「よく調べて返事しましょう」という風に私たちに答えたが、それは全くデタラメナ通訳だったらしい。 日本側の中国語ができる人によれば、とう氏は、「まだあんなくだらない芝居をやっているのか」と言われたのだと言う。 その時以来、私はすっかりとう氏を好きになってしまった。江青を讃える詩を書いたかと思うと、彼女が失脚するやいなや江青を罵倒する詩を(後に)発表するような郭沫若にもその時会っていたのだが、私は当時からこの人には、世渡り上手でおべっか遣いという感じをもっていたので、書のコピーをもらったのだが、日本ですぐ捨ててしまった。 人民大会堂の会見の時、とう小平氏の足元には丸い痰壺がおいてあった。氏はカァーツという音を立てて痰を出し、それをペェッと的確に痰壺の中に飛ばした。中国の父の姿を見るようで、私はその技術にも感心した。 ご家族に囲まれて亡くなられ個人崇拝の対象にならないよう灰は海に撒くとか。やはりいい方であった。
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