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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 北緯一七度線の「慈善家」たち 戦渦の中部ベトナムで  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/02/29  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「トラン・ヴァン・カー」氏と
 ベトナム社会主義共和国には何度か出かけたことがある。だが訪問先は首都である北の政治都市ハノイと、南の商都ホーチミン市(旧サイゴン)に限られていた。現代ベトナムで「北」にも「南」にも属さず、文明度において一段格の落ちる地域と見下されがちな「中部ベトナム」とはどんなところか。かねてから一度、この目で見たいとは思っていた。その機会を与えてくれたのが、アメリカからの電話であった。
「北緯一七度線の旧DMZ(非武装地帯)周辺の貧しい農漁村では、いまだに地雷の被害者たちが大勢、悲惨な日々を送っている。一緒に現地に行ってくれないか。百枚の報告書類より、一回の訪問が勝る」と、電話の主は、トラン・ヴァン・カー氏。ボート・ピープル出身のベトナム系アメリカ人である。
 ハノイで、超満員のベトナム航空国内線に乗り継ぎ、古都フエに飛ぶ。一九九九年十月。二毛作の米の収穫が終わったばかりのベトナム中部地域は、雨期の真っ盛りであった。空港は海外からの観光ツアー客でごった返していた。グエン(阮)王朝の古都めぐりと、半世紀にも及ぶ戦火の源となった旧南北ベトナムの国境北緯一七度線のツアーは、かつて戦争当事国であった米・仏の観光客には超人気のコースとのことだ。
 ハノイで待ち合わせした同行のカー氏がそう解説してくれた。この人と私の付き合いはかれこれ五年になる。彼は数奇の人生の持主である。ベトナム戦争中、サイゴンで米軍の通訳をやっていた。米軍の敗北で奥さんとともに漁船で脱出、フィリピンに漂着する。肌身離さず持っていた米軍属のIDカードがものをいい、難民として米国入りが認められる。掃除夫から身を起こし、レストランを五軒もつ実業家にのし上がる。ここまでならよくある“アメリカン・ドリーム物語”であり、私との出会いはなかったろう。
 その後の彼の生活信条が、凡人とはひと味違う人生を形成する。十年前、彼はベトナムに里帰りする。大枚のドル札と土産をもって……。だが、故郷に錦を飾った彼は、街の光景にショックを受けた。足をなくし這いずりまわる物乞いの群、そして無関心をよそおう同胞たち。それはおびただしい数の地雷の犠牲者の悲惨な姿だった。帰国後、彼はレストランを売却した。奥さんと家族の生活のために一軒だけは残しておいたが。その金で人道支援の財団を米国に設立、ベトナム戦争で犠牲になった同胞の救援活動家に変身する。
 彼の五十年の人生の紆余曲折を、短く言うとそうなる。以後、カー氏は一年の半分近くは、ベトナムで過ごしている。
「山が海岸線に迫っているから、この付近はよく豪雨に見舞われる。田んぼは豊かでないし、観光以外これといった産業もない。とにかく貧しい。中部ベトナムはベトナム戦争の傷が一番目立つ地域なんだ。激戦地だったからね。昔は、古都フエの王朝を中心に栄えたんだけど……」と、フエに近い農村で生まれたカー氏が言う。
 中部ベトナムとはどこか? 持参のベトナム全図をひろげてみる。この国のかたちは、天秤棒の上下に大きな籠をくくりつけたように見える。ひとつの籠がハノイにひきいられた「北」であり、もうひとつの籠が、ホーチミンを中心とする「南」で、南シナ海とラオス国境の安南山脈にはさまれた細長い天秤棒の部分が、中部ベトナム、その中央を北緯一七度線が横切っている。
 
村民の二一%が義肢・義足
 フエで一泊ののち、われわれ一行は国道一号線を北上、一七度線にまたがるクァンチ省の非武装地帯南側の地区、トレンフォンを訪れた。十九の村から構成されている。米作りと漁業で生計をたてる貧困地域である。ベトナム戦争当時、まだ子供だったというカン・ビエン議長によれば、十万二千の人口の二一%は、戦争による不具者だった。うち地雷で手足を失った人が六千三百人、その七〇%が女性だという。「農作業は女性の仕事だから」とビエンさんはいう。今でも畑仕事でごくたまにではあるが、新しい犠牲者が出ている。カー氏の財団は、この人たちに義足・義肢を提供する活動を展開している。省都のドンハの公会堂で障害者大会が開かれ、義肢義足の贈呈式に出席した。
 そこから旧国境の一七度線に向かう。北と南ベトナムを分かつのは、ベン・ハイ川である。東は南シナ海、西はラオスの山にいたる東西六十キロが一七度線で、川から南北十キロに、それぞれDMZ(非武装地帯)が設けられていた。その南側には「マクナマラ電線」という名の鉄条網が張りめぐされていたといい、杭だけが点々と残っている。DMZの南側は、元地雷源(“元”ではあるが今でも時々犠牲者が出る)の危険地帯だが、住民が戻り元の農地で稲作を再開していた。
 その一人、カム・タン・チャン(三九)さんの家は、国道一号線沿いにある。「なぜ戻ったか? もともとここは父の土地であり米と食糧にありつけるからだ。五年前、家族三人で戻ってきた。奥の方はまだ耕してない。それでも移住前より生活はましだ」とカムさんはいう。この付近の農家は、みな国道沿いにある。国道から離れた場所は、地雷が恐ろしいので、耕作に適する地域は細長く狭い。国道の両側には、稲刈を終えたばかりの田んぼがあり、新しい墓地も造られ、自転車で紙芝居屋がやって来ていた。
 旧国境の橋、ヒエン・ルーン橋を徒歩で渡り、旧北ベトナム領に足を踏み入れる。鉄骨に板を渡した橋で機銃弾の弾痕が残り、「一九五四年七月より一九七五年四月まで」の銘が刻まれていた。この期間は何を意味するか。ベトナムの南北分裂期間、すなわちフランスとの戦いの末、ジュネーブ協定が結ばれた日からホーチミン軍の突撃によるサイゴン陥落の日までである。いま、この橋は、人間と自転車と牛しか渡れない。腐りかかった板の透き間から川の流れがかいま見える。隣には、コンクリート製の頑丈な橋が新設されていた。
 カー氏と私の北緯一七度線の旅に、フエ市から一人の元南ベトナム軍将校が参加した。四十九歳の元ヘリコプターパイロットである。南北ベトナムを分かつ橋を、この男と一緒に渡ることには何か因縁めいたもの感じずにはいられなかった。サイゴン陥落の日、米国アラバマ州の空軍士官養成センター卒の彼は、頼み込めば、米軍救出にやってきた航空母艦で、アメリカヘの脱出が可能だった。だが妻子をサイゴンに残したままそれはできなかった。「米大使館の屋上から最後のヘリが飛び発ったとき、海の底にひきずり込まれるような深い悲しみにおそわれた」。コールマンひげのよく似合う彼は、橋の上で、そう述懐した。
 サイゴンがホーチミン軍によって占領されて以来、彼は迫害の日々を送ったのち、高校の英語教師の職にありついたが、今ではベトナムの孤児たちに外国人の里親を探すNGO(VILLAGE OF HOPE)でボランティア活動に従事している。「ツイていない男といわれれば、それに違いない。でも薄幸のストリートチルドレンの里親探しに、とにかく生き甲斐を見つけることにしているんだ」。そう言った彼は、日本人の里親を探してほしい、と三通の写真つき履歴書を差し出した。
 
弾丸あともいちじるしく…
 DMZの南側には、ベトナム戦の激戦地がいくつもある。「ハンバーガーヒル」もそのひとつ。九三七高地という名の軍事拠点なのだが、米軍があまりにも多くの戦死者を出したので、「人を挽き肉に変えてしまう丘」つまりハンバーガーヒルのニックネームを米兵がつけたのだという。「もっと凄い激戦地を案内する」と誘われ、DMZから南に三十キロの元南ベトナム軍の総司令部のおかれた阮王朝の古城、コクン・クァン・トリを訪れる。四キロ四方の城壁をめぐって、八十一日間の攻防戦を展開、南ベトナム軍は二万四千人、米軍は三十四人の死者を出し敗北したという。「北の戦死者は?」と案内人に尋ねたが「それはハノイ政府の秘密」だという。この何倍かの犠牲者を出したことは想像に難くない。平面の半分以上が無数の弾痕でえぐられたレンガの建物がある。そして砲撃でボロボロになった送電線の鉄塔が一本だけかろうじて立っている凄惨な戦場であった。
 フエのホテルに戻り、カー氏と、この街の醸造ビール「HUDA」(デンマークとフエ市の合弁の結果、できたブランド)を飲み、ベトナム戦争とは何であったか??を考えた。「あれ、米国にとって、意味があったと思う?」と私。隣りのテーブルでは、観光客とおぼしき中年米人男性グループと片言の英語のベトナム女性たちが大声で戯れていた。「そんなことより、ベトナム人にとっても何であったのか、考えこんでしまうよ。とくにああいう光景を見るとね」。カー氏はいつになく不機嫌で寡黙になってしまった。ベトナムの生家で仏教の人生観を脳裏に刷り込まれたこのボートピープル出身の米国籍慈善家は、「ベトナム戦争とは、愚かな人間の犯す業なり」とでも言いたかったのかもしれない。
 



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