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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 幸福不感症  
コラム名: 昼寝するお化け 第13回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1997/07/25  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   三年前に続いて、二度目にペルーを訪問した。私が働いている日本財団が、フジモリ大統領の要請にもとづいて、ペルーの僻地に小学校を建てている。今までに三十四校を建てたが、もう後十六校を建てて、最終的には五十校になる予定である。
 こういう話をすると、学校を建てるのは、フジモリの選挙政策で我々はそれに利用されているのだ、という人もいるが、学校に関してだけは、誰がどう利用しようが利用されようが、全く構わない、と私は思っている。今までの体験で、学校の建物だけは流用されたこともないし、日本と違って廃校になったこともない。子供はどんどん生まれるし、今まで小学校三年までしか通わなかった子供が、五年生六年生まで通うようになる例も多いから、学校は地元のお母さんたちの手で厳密に管理されるのが普通である。
 財団としては、昨年度分の監査をする目的もあって来たのだが、日曜日にもかかわらず、大統領自身がヘリで案内して下さることになった。前夜遅く、というより、当日の午前0時半頃、パイロットの将軍のところに大統領府から電話があって、朝にヘリが出せるように、という命令があったという。
 つまりヘリコプターでなければ極めて行きにくい土地なのである。選挙の宣伝なら、もう少し都市部がいいだろうと思う。どこの村でも、村で一番の近代建築が、黄色と小豆色という「フジモリ・カラー」に塗った小学校である。
 学校では、トイレの使い方と、手を洗う習慣を教える。学校は村の誇りである。
 飛行場でヘリに乗る時、大きな紺色の布袋が積み込まれた。何だろうと思っていると、どの村でもその袋に入れてある衣類を土地の人々に渡すのである。古着ではなく、ビニールの袋に入っているのもあって、とにかく新品である。
 一列に並んで服をもらう人々には、必らずしもその人に適切なサイズのものが行くとは限らない。終りの方になると、男の子がスカートをもらったり、小母さんがどこかの制服としか見えない男物の上着をもらったりする。しかしそれでも人々はありがたいのだ。現金収入は極めて少いから、衣類を買うお金はなかなか出ない。大きすぎて肩からずり落ちかけているようなTシャツだって、あれば立派な衣類なのである。アンデス山中の四千メートルを越すこうした村々はけっこう寒いのだから、とにかく身体を覆うものは貴重なのである。
 ここはポンチョの本場である。食堂もない僻村だからお昼ご飯は野外で焼肉をする。戸外では寒風に近い風が吹いているので、私たちのためには土地の人々が織った派手な色彩の布で作ったポンチョが用意されていたが、標高四千を越える土地では私はそれをヤッケの上に着るだけで重くて息が切れる。
 大統領は自ら大きな肉に岩塩をまぶし、SPたちがそれを携帯用のバーベキュー用の炉で焼く。その塩があまりにいい自然の塩なので、私がペルーではこういう塩を売っていらっしゃるのですか?と訊くと、いやこれはブラジルから特別に持ち帰った塩だと言われた。つまりいい塩で焼いて下さったわけである。
 その間にも村の人々が集り出した。何も変化のない土地だから何でも珍らしいのだろうが、特に大統領が見えたのだから確かに見に来る価値はあるだろう。食事が終ると、例の紺色の布袋が又一つ下され、再び衣類の配給が始まる。ここでも数が足りなくなると、私たちのヘリが持って来た鶏のモモ肉から、SPたちが使ったプラスチックのお皿まで配られる。
 人々は嬉しいのである。鶏のモモをもらったお母さんはニコニコしているし、お皿が一枚家庭にふえれば、便利になることこの上ない。
 フジモリ大統領は翌日日本訪問に発たれたが、私たちは数日してボリビアのサンタクルス市に向った。アンデスを越えチチカカ湖を足元に見て南下したのである。

 未だに結核が猛威をふるう社会
 ここでは、財団が日本・ボリビア交流会館の建設費を半分ほどお助けしたので、土地の日系人の方たちが、焼肉屋さんに招待して下さった。ブラジルでシュラスコと呼んでいたものと似ている。
 十六種類の焼肉が出て来るというので最初からたくさん取り過ぎないように用心していたのだが、それでも血の入ったソーセージや、牛の腸、腎臓、乳房まで出て来る。皆、一生でこれほどお肉を食べたことはないほどごちそうを詰めこんだ。
 その翌日、私はこの土地で貧しい人々のために働いているヴィセンテ神父(イタリア人)が、炭鉱離職者たちの住む地域に作った幼稚園を訪ねた。この神父の仕事には、私が二十五年間やって来た「海外邦人宣教者活動援助後援会」に寄せられたお金も何度か送った。
 未だにこの社会では結核が猛威をふるっていた。この子のお父さんは二年前、この子のお父さんは三日前、に死んだ、と神父は説明しながら、顔色の悪い子供たちを抱き上げたり、頭を撫でたりしている。政府の病院に入れても、数か月で出されてしまうので、その後は、重労働のできない病人は行き場がない。結核は栄養を摂ることが大切なのに、そのお金もない。
 結核の特効薬と言われるリファンピシンをお送りしましょうか、と言うと、神父は首を振った。末期の患者には、もう薬も効かない。それより食物の方が大事なのだという。子供たちも栄養が悪いので、親の病気にうつりやすい。せめてミルクを飲ませるだけでも違うと思って粉ミルクを支給しても、多くの家庭ではそれを「食い延す」ために、規定の分量より少い粉で薄いミルクを作るので、やはり栄養の改善にはならない。
 私たちのためにお母さんたちが大きなケーキを焼いておいてくれたが、私などは前日の焼肉がまだお腹に残っている感じでとても手が出ない。しかし子供たちが集っているのは、私たちにダンスを見せてくれるためと、ケーキをもらうためである。こんなお菓子をもらうチャンスはめったにないから、私たちの訪問はちょっとした功徳ではあったのである。
 幼稚園のまわりには、行き場のない母子家庭を住まわせる一間きりの家もできていた。四十五人の子供たちは、親が食べさせられないので、三食とも幼稚園で給食をしている。肉が出るのは週に一回、水曜日だけだと言う。
 日本人は、ありあまる衣服を持ち、飽食して太るのを気にする。Tシャツを一枚もらうことや、お菓子を一個もらうことに、大きな幸せを見つけられる子などめったにいない。肉など毎日おかずに出て当り前だ。私たちは世界で有数の、幸福不感症の国民になった。そしてその不幸にさえ全く気がついていない。
 



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