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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 一人前の人間?ボクの飯はどうなるの?  
コラム名: 自分の顔相手の顔 6  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1996/11/26  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私は学校秀才でなかったから、秀才には今でもコンプレックスや尊敬を感じている。学校秀才なんか、いざとなると役に立たないんだぞ、とも思っているが、ものごとの筋道を立て、規則に照らして考える能力など見せられるとやはり感服するのである。
 しかしこういう学校秀才ほど、自分一人で生きることができない。ご飯も炊けず、洗濯機はどこをいじったら使えるかわからず、自分の靴下の在り処もわからなくておろおろしている。
 私の周囲には、その手の自立していない男に対する笑い話が満ち満ちている。
 奥さんが仕事を持っていて、時々旅行にでかけると言うと、まず「ボクの飯は?」と聞くのだそうだ。女房がどんな土地へ行くのか、そこは暑かったり危険だったりしないのか、そもそもどんな男と行くのか、いつ帰るのか、など、てんで気にならない。妻がでかけると聞くやいなや、夫の頭を過るのは「俺の飯はどうなるか」ということだけだ。
 この話を聞いて私たちは笑う。この笑いは微妙なものである。もちろん嘲笑が第一だ。その人が自分の専門の分野できちんとした仕事をしている人ほど、こういう時に盛大にその無能を笑ってもいい、というのが、体験から出た感じである。ただこの笑いは、決して嘲りだけではない。少しその男の人をかわいいと思っている。人間偉大なばかりではだめで無能なところが残っている方が香りがいい、とも感じてはいる。しかし取り敢えず笑わせてもらう、のである。
 私が母から家事を仕込まれた昔なら、確かに飯を炊くということはちょっとした技術だった。まず水加減はといだお米に掌を水平に置いて手首の骨のあたりまでにする。薪でもガスでも、火加減は「初めチョロチョロ中ぱっぱ」と擬音入りで教えられた。最後の火の引き加減でお焦げもできる。それはできたらできたで、なかなかおいしいものであった。
 しかし今はほんとうに気楽なものだ。炊飯器のお釜を水平な面に置いて、お米や水を正確に計ればいいだけのことだ。それに近くのコンビニやデパートのおかず売り場に行けば、何とたくさんのおいしそうなものを売っていることだろう。しかしこの手の男は、外で買って来る才覚もないか、まずくてだめだ、などと言うのである。
 人間自分でできないことは諦めるべし、である。それに一日や二日、或るいは十日や二十日まずいご飯でもがまんしたらどう? いったい自分を何様だと思っているのかしら、と私はワルクチを言いたくなる。
 この頃私は、霞が関や丸の内あたりで仕事をしている男たちには、すべて採用の時、簡単な料理の試験を付け加えることに賛成なのである。自分で生きることもできない男は、いかに公務員試験に通ろうが、一人前の人間ではないからである。そんな男に天下国家や大会社の運命を任せられない…。
 



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