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みんな『いい人』なんかではないのです。 私たちは誰もみんな偏っています。 ないものを数えずに、あるものを喜び、 させせていただけることをすればいいのです。 移り変わる世の中で、絶えず自分の視点を持ちつづける作家・曽野綾子さんは、同時代を生きる者としてぜひ、お目にかかりたかった方のおひとりです。 とかく話題になった日本財団の会長に就任されたのが95年秋。自らも「海外邦人宣教者活動援助後援会」を組織して27年。著作のほかにも、これらの活動を通して、人間が生きる世界に絶対などありはしないという、現実とその対処への姿勢を提示されました。 人生はいささかの失敗のなかで、ときには恥じ入り、自分を奮いたたせ、また悲しみとともにあります。曽野さんのメッセージは、私たちにとって、この世は可もなく不可もなく、それぞれが置かれた立場を十分に生きることだと教えます。それは、とりもなおさず、今を生きることへの輝かしい肯定だと思います。 自分が倒れてしまうほど親に尽くす??。 子供はそれをしてはいけない、と私は思っています。 文学で生きていけるようになるには、石の上にも3年、いやそれ以上の年月をかける必要があるかもしれない。でも、もしそこまで頑張っても食べていけなかったら悲惨だ、と若いころは思っていました。望んでも小説家になることができるかどうかわからないのならば、夢を見てその道にしがみついているより、学校で英語を少し勉強していたので、せめて翻訳者として一人前になるほうを目指そう。ところが、そう思うたびに、小説を書いていける状況が少しづつ整ってきました。幸い、結婚した相手(夫は作家の三浦朱門さん 注・編集部)も、好きなことをやれ、という変な人でした(笑)。 私は親を捨てるほどの勇気もありませんでしたから、結婚して、三浦の両親と離婚した私の母と、結果的に3人の親と一緒に暮らして、みんな自宅で息を引き取りました。とはいえ、3人いるわけですから、理想的に面倒をみようとしたらできません。およそ理想とは遠いやり方で同居したわけです。親たちが庭に出ていれば、まあ健康だろう、じゃあいいやほっとこう、という感じです。 夜は看護婦さんを頼むこともありましたが、昼間は、基本的にお手伝いの人と私がうちにいます。でも、家にいるからといってずっと親のそばについていてやるわけではありません。ただ、一つだけ家族でルールをつくりました。食べられなくなった親に、いつでも誰かが口の中に何かを入れて来るのです。お砂糖の入った甘いミルクティーや果物の汁など、当人が起きていれば、そばを通りかかった人が、24時間いつでも、口に入れてあげる。おじいちゃまはチョコレートが好きな方でしたから、通りがかりにポンと口の中にチョコレートを。チョコレートはカロリーが高いから便利な人だなと思いました(笑)。そんなふうに親たちとつき合いました。初めから理想的なかたちがとれるとは思っていませんでした。 世の中には、ご自分が倒れてしまうまで親に尽くされる方もいらっしゃると思いますが、子どもはそれをしてはいけないと、私は思っています。なぜなら、子どもは親を捨てることができないからです。自分が死なない限り最後まで親と一緒にいるのであれば、子どもも自分を生きないと、親の面倒はみられません。いたれりつくせりでは、1か月かそこらでつぶれてしまいます。だから、最初から、長続きするようなかたちにするのです。 私が小説を書くことをやめて面倒をみたら、親のせいで小説が書けなかったと、親を恨むようになると思いました。そうなっては親に対して悪いと思って、優先順位をつけたのです。小説が何よりいちばん。その一方で親の面倒をみる。その考えを、私は隠さなかったし、お姑さんの前でもそのことは言っていました。 私は何でもはっきり言います。私には、こういう悪い癖もあればいい面もあるでしょう、そういう私に合うことで私をお使いください、というのがキリスト教の考えかたです。キリスト教にもいろいろあるでしょうけれど、私の解釈したキリスト教はそういうものです。 日本財団(※1)の会長をお引き受けしたときも、私にとっては小説がいちばんで、残りの日に財団へきて仕事をします、と最初にはっきり申しあげました。1週間のうち小説が4日、財団に行くのが3日です。財団では無給で働いていますが、最低でも4日は小説家をさせていただかないと、曽野綾子は陰でこっそりお金をもらっているのではないかと思われます(笑)。私は断ることの名人なので、財団でどんなお偉い方からの申請があっても、財団の理念と違えば、決してOKを出しません。 たとえ愚かな行為であっても、 救える立場にいるのなら救わなきゃならない。 なぜなら、私たちは遠い未来を見ることはできないからです。 私は、この世のすべてのものに意味があると思っています。私と相反する考えや行動にも、です。たとえば、とても忍耐強い人がいます。忍耐強いということはいいことです。そういう人が農耕をすると、ずっと腰を曲げたままで作業を続けることができるでしょう。ところが私は、いったいどうすればラクにできるかと考える。腰を曲げた状態のまま稲を刈るより、座ったまま遠隔操作をして刈れないだろうかと思うわけです。そういう人が自動稲刈り機をつくるんです(笑)。私はつくれませんけどね(笑)。 忍耐強く作業を続けるのも、ラクをしようと機械を開発するのも、どっちもいいんです。短気な人もいいし、呑気な人もいい。強欲な人も、そうでない人もいい。現世の名誉を追う人もそのエネルギーで社会に貢献できるし、そうでなければ、それもまた清々しい。私の友人には、総理大臣と並んで写真を撮りたいと思うような人はいませんが、仮にいたとしても、そういう志がある人だから、何か大きな事を成し遂げることもあると思うのです。 作家としてデビューしたころ、私は何一つ苦労なく育ったお嬢さん、とマスコミから言われました。なんてわかっていないんだろうと思いましたけど、ひどい暮らしをしてきたと言われるよりはいいかなという気持ちね。そうした、現実と乖離した考えかたには憤れていましたから、どう言われてもそのまま受けとめます。仮にどういう家庭がよいかと言われれば、一も二もなく健康で円満な家庭がいいと言いますが、だからといって歪んだ家族だけがもつ意味を否定するものではありません。私は、可愛がられ、ちゃんと愛を知って育ちました。同時に、人生の苦悩も知って育ちました。子どものときから、苦労人だったんですよ。 父は厳格で、母に対してもうるさい人でした。だから、結婚生活は暗いものでしたし、母は小さなことでよく嘘をつきました。嘘といっても、よそに男がいるなんてことじゃありません(笑)。私はずーっと母のエプロンの端を握り、24時間母と一緒にいたような子どもでしたから、男がいるはずがないことぐらい知っています。母がつくのは、ちょっとした嘘です。小学校に行く前から、私は嘘というものをよく知っていました。 私が6歳ぐらいのころ、6つ年上の従兄弟が遊びに来て、私に都々逸を教えました。「騙される気で、騙されて」。その言葉を聞いたとき、いい言葉だと思いました。今でもその言葉は私の中で生きています。 私は今、援助の仕事をしていますが、お金の出先は基本的に、泥棒と思うことにしています。それで、日本人のカトリックのシスター方を助けることに、お金を使っています。現地の人にお金やものを渡せば、まずしい人たちは、まず盗みます。 日本財団に途上国から援助の申請がくると、申請された金額が適正かどうか、いざお金を渡すとなればそのお金は誰が管理するのか、こと細かく調べます。その理由は、管理する人がその国の大統領だろうと神父だろうと、盗むときは盗むものだからです。それでも、我々は援助をしたい。だから、盗まれないような方途を取る。そして最終的には、お金を受け取る側が感謝をしなくても、威張って持って行こうと、私は申請をした人々を救わなきゃいけないと思っています。 私に都々逸を教えた従兄弟は、私が発展途上国への援助活動をしていることに対して、余計なことをするなと言うんですよ。アフリカ自体が自分で自分の運命を選ばない限り、アフリカの問題を解決することはできない。私みたいな者が余計なことをするから、アフリカの問題の解決が遅れるのだと言います。私は、その従兄弟の、私に対する歯向かい方に、よくぞそこまで言ってくれると、誠実を感じはしても、腹を立てるということはありません。 私たちは遠い未来を見ることはできません。今、アフリカを放置して殺したほうがよいのか、救うほうがよいのかと考えたとき、救うといっても、全アフリカを救うことなど誰にもできることではありません。だとすれば、限りある私たちのところにきた申請に対して、限りある私たちのお金を、何とか飢えた人たちに届くようにする方法を考え、それをやっていくよりしようがない。私はそれをする立場に立ってしまったのです。 私は、誰かが夕飯が食べられないと思うと、すごくつらいから、お金を出します。この私の行為が愚かであるならば、その愚かなことをする任務を、私は与えられたのだと思っています。だから、私は私のせいでアフリカの問題が解決しないと言われても、ぜんぜん怒りません。そうかもしれないと思います。財団の仕事を引き受けたのも、何もいいことをしようと思って始めたわけではありません。 人間は、ここへきて働きなさいと言われるところへあらがわずに行き、 お役に立つあいだだけ働かせてもらうのがいいんですね。 私はカトリックの学校に行きましたが、学生時代から「慈善」という言葉が大嫌いでした。基本的に、社会でいいと思われることをするのは恥ずかしくて嫌だったのです。それが現在のように海外への援助を行うようになった経緯は『神さま、それをお望みですか』という本にも書きましたが、そのきっかけの一つに、取材でマダガスカルに行って、試しにやったカジノで大当たりをしてしまったことがあります。最初に、もしカジノで大当たりしたらそのお金は、マダガスカルの産院で働いているシスターに差しあげるという約束をしてはじめました。カジノで大当たりして、私はお喋りですから、「私の神様は教会にはいない、カジノにいるんだわ」(笑)と、日本に帰ってからあとも言っていました。そうしたら、「1000円あれば8日間入院させて、子どもの命が助かるの? じゃあ私のお金も1000円、持っていってちょうだい」という人が出てきたわけです。そうしていつのまにか、「海外邦人宣教者活動援助後援会」(※2)ができました。 日本財団の会長になる前、私たちの組織も申請をすれば、正式な審査を経て、資金の援助が受けられるかもしれないから申請してみてはどうかと勧められました。けれども私はそれをしなかったんです。私たちの組織に100万円のお金が集まれば、その100万円を誠実に使えばいいだけのことです。それを何倍にもする任務はないと思うからです。 日本財団の会長に就任した理由は、ほかに誰もなり手がなかったからですね。当時日本財団は悪評にまみれていましたから、そういうところとつながりを持つことは具合が悪いと、どなたもお思いになったのでしょう。でも、私は日本財団が悪評通りのところではないことを知っていました。そもそも、運輸省の管轄下にある法人です。いかがわしいことができるはずがありません。それに、マスコミがどう言おうと、私には失うものは何もないと思って、私は会長を引き受けました。そのとき、夫は、トクになることならやったらいいよ、と言ったんです。 気がラクになる、ありがたい言葉でした。 日本財団では、私がたまたま勉強していた、船のこと、ハンセン病(ライ病)のこと、ボランティア、この3つがぜんぶ役に立ちました。私は、3000人ほどの患者がいる、インドのハンセン病の病院で暮らしたことがあります。笹川良一前会長が一生をかけてなさった仕事も、ハンセン病の制圧でした。2000年にはハンセン病終息宣言を出すことができそうです。私が財団で仕事をさせていただくようになったことは、不思議なくらい偶然が重なったと思っています。 人間は、ここへきて働きなさいと言われるところへあらがわずにいき、お役に立つあいだだけ働かせてもらうのがいいんですね。あまり長くは執着せずに。 「みんないい人」というのは間違いで、 みんないい人なんかではないのです。 世の中がいつも安心して暮らせるというのも、まったく嘘の言葉です。 同じ時代の、同じ国の、同じ町内に居合わせ、そこで袖触れ合う方の存在。それを重く見て、そこにドラマを感じるというのが小説家の本性です。猟犬がウサギを追うようなもので、私はそれをやり続けているだけです。 私が小説家として続いてきたのは、書斎に居続けなかったからです。書斎にだけ居たのでは、書くこともなくなったでしょう。私たちが始めた海外援助のお金が、ちゃんと使ってもらえているかどうか。たとえ相手が神父といえど、私は自費ででも現地まで見届けに行きました。そして、その先でまた、この世のものとは思えないような話を聞いたりするのです。そんなふうに、自然に小説に書くことの周辺が広がってきました。広げようという意思があったわけではありません。 私たちは誰もみんな、それぞれに偏っています。そのことを恐れず、自分がいいと思うこと、自分がしたいという生活を、口に出して言わなければいけないんでしょうね。しかし残念ながら、そのための「勇気」というものは、1945年の8月15日で終わりになってしまいました。今あるのは「求愛」、みんなからよく思われたいという気持ちです。「みんないい人」というのは間違いで、みんないい人なんかではないのです。世の中がいつも安心して暮らせるというのも、まったく嘘の言葉です。地球上の、この現世というものは、まったく安心して暮らせないというのが特徴なのです。 テーブルの足は一本だけではありません。4本あれば、その4本で支え合っています。私たちはみんな、そのうちの1本です。その立場をしっかり知りながら、自分は自分というのでいいんじゃないでしょうか。 私が自分の立場をはっきりと自覚するようになったのは、アフリカのおかげです。私に言わせるなら、アフリカには、発展途上ではなく下降国みたいな国もあります。けれども私は、アフリカは偉大な教師だ、と言い続けています。人間とはそもそも何なのか、アフリカに行くとその原点に立ち戻ることができるからです。生まれてこのかた、温かいお風呂に入れて、御飯だって質素なことはあってもお腹いっぱい食べさせてもらってきた私にとって、そのことがどんなにありうべからざる幸運か、アフリカにいるとよくわかります。日本にいても毎日、そう思って、私は暮らしています。 友だちが死んでいくのを見つめるのも、人生の一つの仕事でしょうね。 自分が死ぬことも、仕事ですから。 私は自分ができることはいたしますが、能力がないことがわかったときは、ごめんなさい、堪忍してくださいと言って、さっさとやめます。自分の器量にあったことをすべきだと思うからです。 小説家として過ごす日、私は三浦半島にある海のそばにある家にいき、そこで畑をしながら小説を書きます。と言うほど、実際はラクではないんですよ。畑に出れば、小説を書く時間はなくなります。そうするとイライラします。自分はなんて貧困な精神の持ち主なのだろうと思います。 その畑は、仲のよい奥さまと一緒にやっていますが、私は、畑をまったくせずに小説を書いているときもあります。でも、その方は私の事情もわかってくださいます。私がごめんなさいとも言わずに仕事をしていても、非難するような顔もなさらないんです。ただし夕食は、料理が好きな私がつくります。その方は、私がつくった荒っぽい料理でも、自分がつくるよりはいいと言ってくれます。うまい具合に折り合うんです。 夕食が終わると、もう働くのは嫌になります。電話がかかってくると、自分で出ておきながら「もう寝ています」って言うんです。「起きているじゃないか」と相手は言いますが、「精神はもう寝ています」って(笑)。 こんな毎日に、私は感謝してます。もし日本が今のように平和ではなく、食べものもなかったら、私はもっとあさましいことをして、さらに醜さを人に見せつけているだろうと思います。しかし今のところは、畑でできたものをその方と仲よく半分に分け、余れば人に差しあげるくらいの楽しさがあります。 日本には、自分の仕事に対して誠実で、実に見事になさっている方がたくさんいらっしゃいます。そういう方のおかげで、物流はきちんとしているし、泥棒も少ない。外国でときどき買物をすると、たとえばセーターなどで、エッ、こういうほどけかたをするの、というようなものを買わされることがあります。安物を買うからだと言われればそれまでですが、日本では安くてもそういうものはありません。それは日本人の一つの誠実さのおかげですね。 私は今、60代の半ばですが、人生の後半に入り、すごくおもしろくなりました。50代よりも、さらにもう少し奥深く、人生の複雑さが見えるようになった気がします。体力がなくなったり、出かけると疲れたり、それから何より友だちが死んでいくのは嫌なことですが、友だちが死んでいくのを見つめるのも、人生の一つの仕事でしょうね。自分が死ぬことも、仕事ですから。 この年になると、思い悩むこともなくなりました。というのも、自分が置かれた座標というか、そういうものがわかるからです。それは私が決めたものではなく、たまたま私はそこに立たされたんです。日本財団にいるあいだは、自分ができることをして、周囲を眺め、楽しむ。でも、いつもやめる日の爽やかさばかり考えてます。また、小説を書いて庭いじりをして、本を読んで、することがたくさんありますから。 なにごとも受けていくより仕方がないでしょう。戦火のなかを逃げまどったり、肉親を殺されるということがあれば、あらたなる憎しみもわきます。それはやっぱりつらいことです。日本のような平和が続くというのは、適当なきれいごとが言える幸福を与えていただいているということなのです。 思いあがらず、もし目が見えるのであれば見えることでさせていただけることをすればいい。ないものを数えずに、あるものを喜ぶ。これは、いい言葉です。誰も私を、そんなに才能のある人だと思っちゃいない。でも最近は、田舎くさいおそうざいつくるの、大好きになったんです。京都人にはムリでしょうけど、私の田舎料理、好きだと言ってくださる方もあるのですから、死ねまで、できたらお料理したいですね。自然にできることをやるのが、中高年の生きかただと思います。 なにごとも受けて、外的な力をうまく利用しながら、結果は、自分で選択して生きる。そういうことは、若者にはできません。 注1「日本財団」 1962年(昭和37年)にモーターボートをはじめとする船舶・船舶用機関等の製造に関する造船事業や海難防止にかかわる事業の振興に役立つために設立。現在、競艇の売り上げの3%を海洋船舶に関する研究開発、公益福祉、海外協力、ボランティア支援などに使っている。 注2「海外邦人宣教者活動援助後援会」 曽野綾子さんが組織する民間の援助団体。海外で働くカトリックの神父と修道女の活動を助けるための資金と物資の援助を目的としている。 お問い合わせ先 いきいきサービスセンター TEL 03?3235?1755 (雑誌「いきいき」は年間定期購読誌です。)
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