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二十年前、イスタンブールのディヴァン・ホテルで短篇の第一枚目を書き始めて、「まだ書ける」と私は少し喜んだのだが、やはり私は毎日、死ぬことを考えていた。視力障害というものは眠っている時以外、いやでもその事実を当人につきつけ続けるものなのである。 しかし翌日、私たちはバスでアンカラに向かった。イスタンブールからアンカラまでは約四百キロ、朝出て夕方六時になってもまだ着かなかった。このまま真っ直ぐ走れば、いつかはインドのカルカッタヘ出るはずである。視力に自信がないのだから、正碓ではないかも知れないが、昼食を食べた時以後、食事のできそうなドライブインなど、当時はなかったように思う。 私はだんだんお腹が空いて来た。途中で買ったカシューナッツを膝の上でむいて口に入れていた。アンカラに近づくと驟雨があり、道のあちこちに水溜りができていてなかなかホテルにも辿り着かない。 私はふと或る現実に気がついた。空腹を感じ出して以来、私は一度も死ぬことを考えていなかったのである。 今日本では、高齢の自殺者が多いという。飛び込み自殺など交通機関にひどい迷惑をかける。どうしても死にたい人はその前に、二、三日断食してみるといい。どうせ死ぬ気なら断食くらい、一週間でも十日でもできるだろう。空腹になると、人間は生の法則に従うようになる。飽食が可能なような個人的、社会的状況があるから、人間には甘えができて、「自殺を書える余裕」も生まれるのである。私もまた、死をこの視力障害の一つの解決法として考えていて、一時間に一回くらいは死ぬことを思っていたのである。 二週間ほど後に私たちはトルコ南岸のフィニケに来た。フイニケとは「フェニキア人の」という意味だ、と聞いたが確信はない。当時そこは人気もなく、海岸では澄んだ水がさざ波を立て、底の石まで多分見えていたように思っている。つまり私の印象だと、海は笑っていた。 海は私がそこで自殺しても笑い続けるに違いなかった。ここは暗く深刻でなさそうでいい場所だ、と私は思った。どうしても死にたかったら、ここへ来よう。今は友人たちがいるから、迷惑をかけたくない。しかしあらゆる個人の死など歯牙にもかけないようなこの冷酷な明るさの海は、死に場所としていい。 もうその時には、私は初めから死を実行する気はなく、只その想念を弄んでいただけだと言われても、私は決して反対しない。私はカトリックだから、自殺は大罪だと教えられていたのである。 しかしトルコのこうした土地の記憶は、それだけに私の中で一際深い思いを持っている。聖パウロも生涯視力障害者だった。パウロの手紙の特徴は、描写という要素が全くないことだ。だから私も、見えない眼でトルコを廻ったことで、聖パウロの生涯をいつか書けるかも知れないのである。
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