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司馬遼太郎氏が亡くなられた後も、人々の熱狂的な支持は大変なものである。しかも司馬氏の知識は学者以上だろうから、司馬氏のこととなるとすべてが正しいという空気ができるのも当然かもしれないが、私は時々別な感慨を持つこともある。 多作でいられたせいだと思うのだが、氏の小説の文章に小さな抵抗を感じたこともよくあった。さりげなくてしかも練りに練った文章というものに出会うと、私は魔力をかけられたように感動して居住いを正すのだが、その手の文体ではなかったからである。 NHKで行われた講演が連載で載録されている「週刊朝日」の三月二十日付けの号には、氏が日本中が偏差値ばかりに気をとられているのがおかしい、と述べた上で次のように言われたことが記録されている。 「もっとも、偏差値もあんまり低いと情なくなる時がありますね。 私は坂本竜馬の国の、土佐のことをずいぶん書いたのですが、高知県というのは全国の最下位に近いんですね」 私の夫も戦争中旧制高知高校へ行った。昭和十八年、寮で読んだ新聞に、時の徴兵官が次のような内容の講評を出したのをよく覚えている、と笑う。 「本県の壮丁は身体頑健でまことによろしい。しかし残念なことに、この大戦下にあって敵国の名前を知らない者がおる」 昭和十八年といえば、開戦後、確実に二年は経っているのだから、敵国を知らずにいるとはなかなかの大物である。夫はその頃、イシャウッドの『さらばベルリン』などを読みふけって、次第にナチスの色濃くなるベルリンの憂鬱を、自分の暮らしと比較したりしていたので、この壮丁の話には圧倒されてしまった。こういう人が古参兵でいたらタイヘンだと思い、東京に本籍を移した、という惰弱な文学青年だったのである。 司馬氏は、その高知から来た一人の高卒の娘さんが「日本という国は息苦しい」と言う言葉を取り上げている。 しかし私からみると、日本という国は世界でも稀な、息苦しくない国なのである。天皇の悪口でも総理の批判でもしたい放題だ。 日本は息苦しいとしたら、日本の「地方」が息苦しいのであって、東京ほど息が楽なところはない。人一倍気が小さくて、絶えず周囲の風評が気になる人は知らないが、東京では、ネズミより少しだけ大きい心臓があれば、誰も法律にふれない限り、何でもできる。 イギリス人もフランス人もそれなりに生活が息苦しかったから、危険を承知で植民地に出て行ったのだろう、と私は思う。先日デンマークに行ったが、その淋しい海辺の村では、個人の生活はすべて筒抜けだろうと思うと、息苦しさもしのばれるものであった。アフリカの電気もない村では、二十キロと離れた村や町へは行ったことがないという人がほとんどなのだ。司馬氏の論理にも時には異論がある。
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