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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 日本人よ、悪しきこの状況も愉しめ  
コラム名: この国はどこへ向かうのか10)   
出版物名: 中央公論  
出版社名: 中央公論社  
発行日: 1998/12/01  
※この記事は、著者と中央公論社の許諾を得て転載したものです。
中央公論社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど中央公論社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  聞き手 田原総一郎

小説家に、日本財団の会長??
人から蔑まれる仕事につくのが趣味なんです


はじめに
 曽野綾子さんとのインタビューの前、わたしは少なからず緊張していた。曽野さんは、わたしが“敵わない”と思っている数少ない日本人の一人である。
 何人かの編集者に、女流作家について聞いたことがある。女流作家には、編集者泣かせが多いという噂を耳にしていたからだ。この噂は、どうやら事実のようだった。その中で、どの編集者もが“例外的にいい人”だといったのが曽野さんであった。わたしは、モノを書く人間というのは、わたしのようなジャーナリストを含めて“イヤラシイ奴”だと思っている。
 その中で、誰もに“例外的にいい人”といわれる作家とは、何とも不気味な存在である。
 しかも、“いい人”でいて、なぜあのようなするどい文章が書けるのか。本当は、この人は、おそろしく人が悪いのではないかとさえ思える文章もある。その曽野さんにインタビューするのだが、と、親しい編集者たちにいった。すると、誰もが、“そんなおそろしいことを誰が考えたのか”と逆に問うた。曽野さんは、こちらの思惑から何まで、すべてお見通しで、とくにわたしのような挑発的インタビューは大嫌いな人なのだというのである。
 インタビューする前に、アッパーカットを食わされた感じだ。そこで、おそるおそるインタビューの場に臨むと、曽野さん、何ともやさしい微笑を浮かべて、わたしを迎えた。(田原総一朗)


あまりに違う美学に驚いた

田原 曽野さんはいまの日本は良くなりつつある、あるいは悪くなりつつある、どうお感じですか。

曽野 わたくしは良くなるか悪くなるか考えたことがないんです。占いから経済予測まで当たったためしがないでしょう。だけどいまの日本について言えば、世界に冠たるいい国だと思っています。とにかく食べられない人がその辺にいない。救急車を呼ぶとお代を払えなくても乗せてくれるし、民主主義の基本となる電力も安定している。本当にいい国ですよ。

田原 ところがここへ来て、不況だとか、政治がだらしないとか、いろいろいわれ始めた。これはどうですか。

曽野 ちょっと恥ずかしいのですけれど、いまは徳の要る時代だと思います。昔は徳のために死んでもいいという人もいたそうですが、あまりにもそれがなくなり過ぎました。
 徳は現代では経済価値を生むものだと思うんです。現実には「人のために命を捨てる、これより大きな愛はない」というより「人のために命を捨てる、これほど大損はない」と思われていますが、やはり私たちは徳のある人間や国家を信用し、つながりを持とうとします。いまはその部分がまったく欠如していますでしょう。

田原 いつごろから欠如してきたんですか。

曽野 日教組が「教師は労働者である」とおっしゃったころからではないですか。

田原 昭和二十年代ですね。

曽野 そうだと思います。いまでも覚えていますが、そのころある教育雑誌に、「自分の損になることには黙っていない」ということを生徒の今週の目標に掲げた学校があって、それはいいことだと書かれていて本当に鷲きました。わたくしはたまたま幼稚園のときからカトリックの学校に入れられて、「友のために命を捨てる、これより大きい愛はない」「受けるより与えるほうが幸いである」といった別の美学で育ったので、あまりにも違う美学があったことに驚いた。
 もちろんどちらもあっていいと思うんです。わたくしも、お饅頭を半分に割って分けるときには、どっちが大きいかなと考えて、大きいほうを取ります。そのバイタリティーを失ってはいけないし、自分がそうであることを認識するのに一度もためらったことはないですけれども、戦前は自分の持ち得ない徳というものに対する憧れがあったような気がします。それと、みんなが多様性に慣れたり、悪いこともおもしろがったりする、そういう精神が最近はないでしょう。「悪いことは悪いこと」といって捨てられますから。

田原 たいして悪くないことまで「悪いことだ」といわれる。

曽野 学校のそばに温泉マークができるとすぐに「つぶさねばならない」といってきましたから。あんなものは子供に教えればいいじゃないですか。

田原 最近は学校をつくるのにも反対が強い。産業に結びつかないからと。

曽野 障害者の施設があると地価が安くなるとか、平気でそういうことをいうでしょう。とても貧困な気がしますね。


あうんの呼吸かマニュアルか

田原 戦後になって、戦前の国のあり方、つまり滅私奉公はいけないといわれるようになりました。そして個人主義になって、「損になることは黙っているな」といい出した。そこはどうですか。

曽野 戦前は選べなかったわけですね。よく「どうして反戦的な運動をしなかったのか」という人がいますけど、もし徴兵拒否なんてやったら親戚中まで生きていられないという当時のことをご存じないんです。戦後は自由に選べるようになった。決して死なない自由もあるし、人のために死ぬという人生を選ぶ自由もある。そういう基本が忘れられているから話が極端になるんです。
 私は十三歳ぐらいのときに空襲を受けて砲弾恐怖症になって、一週間ぐらい口がきけなかった。「明日の朝まで生きていられるという予測のつく日がいつ来るのか」と思いました。そういうことがあったから戦争をいいなんて思うわけはないんです。ですけれども、戦後に吉田健一さんが『非情の海』をお訳しになって、最後に「われわれは戦争からも学んだ」という意味のことを書いておられた。『西部戦線異状なし』や『チボー家の人々』はいまでも胸を打ちますよね。戦争は九五パーセントまでは忌避しないとあわないものですが、五パーセントは偉大なことを学べるんです。「すべて存在するものは、良きものである」というトマス・アクィナスの言葉を後に知って、本当にそうだと思いました。

田原 ヤオハンが最近潰れましたが、あそこの和田一夫さんという経営者は毎日日記をつけていて、経営者にはいろいろ嫌なことがあるけれども日記の最後には必ず「だから良かった」と書くんだといっていました。倒産して「だから良かった」と書いたんでしょうかね。

曽野 ヤオハンとしては良かったわけではないですけれど、和田さんが心の奥底で何を思われたかは、われわれは知りようがないですね。でも人間はすべてのことから学べるんです。わたくしは仲の悪い親のもとで育ったものですから、本当にうんざりするような子供時代を過ごしました。「子供一一〇番」をつくったって何したって、絶対あれは救えませんよ。だから、穏やかな家のほうがいいですけれども、わたくしが小説家になったのは、そういう火宅のような家庭に育ったからだと思います。おかげで、早くから物事をひが目で見られるようになりました。六歳のころに、十二歳の男のいとこが父親のなじみの芸者か何かから都都逸を習って来て、それを教えてくれたんです。それで「騙される気で騙されて」というところだけ覚えた。いい言葉だと思ってね(笑)。将来、本気で騙されちゃいけないけど、騙される気で騙される人になろうと思いました。六歳のときですよ。変でしよう。

田原 曽野さんは戦前の日本はいまの日本と比べて良かったとお思いですか。

曽野 思いません。結核はひどかったし、どこの家でも親父さんが威張ってて、おっ母さんは温泉に行く自由もない。寒い家に住んで、井戸の水を汲んで、薪でお風呂を焚いて。浴衣一枚洗ってごらんなさい。重くて死にそう(笑)。そういう時代からみたらいまは幸せですよ。

田原 もしいまが幸せな時代とするならば、そうなったのにはいくつか理由があると思いますが、ひとつは強いリーダーをつくらなかったことですね。第二はビジョンをつくらなかったことです。そして日本はとにかく得になることをしようということで来た。それが豊かさをつくったけれど、同時に貧しさもつくった。

曽野 強力なリーダーなしでやっていけるというのはいいことだと思いますけれど、物質的に豊かであるというのはどういうことかをみんなに教えなかったのがよくないですね。

田原 どういうことですか。

曽野 基本的に、地球上はまだ食べられていないんです。そして基本は不幸なんです。その一言を教えない。

田原 ごくわずかな人数が非常に豊かな生活をしていると。

曽野 それと、日本の場合は幸運があった。そして知的レベルが高いから、社会全体がある程度のレベルを保てる。たとえば、空港で荷物が一つ置き去りにされていると、通りがかりの人が「この荷物、どこへ積むんだ?」「ANAさんの荷物だから、ANAさんのところに乗せないといけないんじゃないの」と気を利かせる。これは外国では絶対やりません。自分の責任でないものは、ずっとそのまま。日本はマニュアルがなくても、みんなが補完的な力を出しあってやれるんです。

田原 だけどいまは、マニュアルなしで、あうんの呼吸でやってきたことが、「日本はいい加減だ」といわれる。大蔵官僚の接待づけとか。

曽野 組織以前のものならあうんの呼吸でやっていいと思うんですよ。ですけど近代的な組織になると、ここからここまでがすべきところで、ここからここまではしてはいけない、ということが決まらないといけない。

田原 マニュアル化はいつやるべきだったんでしょうか。

曽野 昭和二十年代の終わりから三十年代にかけて大ダムができましたが、大ダムができるということは工法が違って来たわけです。それまではモッコとシャベルとツルハシでやっていたのが、クレーンを使ったりするようになった。そのころから、あうんの呼吸ではだめになってきたんでしょう。

田原 そのときにどうしてマニュアルをつくらなかったんですか。

曽野 才能があり過ぎたんじゃないですか。わたくしは子供のころよく母に「もっと才覚を働かせなさい、気を利かせなさい」といわれました。でもそれが崩されたのは三菱のテストパイロットを見にいったときなんです。飛行服の足のところにエマージェンシー・チェックブックというのがあって、緊急時にはどのレバーを押せとか引けとか、どの計器を見よとか、一〇も一五も項目が書いてある。それで全部やってだめならイジェクト(飛び出せ)というのですが、このエマージェンシー・チェックブックの項目は覚えてはいけないんです。暗記すると飛ばしてしまうから。わたくしの受けて来た教育と全然違うと思いました。

田原 つまり才覚を使っちゃいけないんですね。

曽野 ええ。それから二〇年以上前に台湾に行ったときのことですが、列車に乗ったらお茶が配られてきました。コップを渡されて、「どれになさいますか」といわれてお茶を選ぶと、子供が巨大なヤカンをもってきて熱湯をつぐんです。揺れている列車の中で。一種の東洋的匠ですね。わたくしはもう驚いて。アメリカ人だと絶対にああいうことをせずに、押すと定量のお湯が出るようにするでしょう。これは東洋の短時間における進歩の理由だけれども、大きな目で見ると負けるだろうと思いましたね。この二つのことが印象的でした。


なぜ日本財団の会長を引き受けたか

田原 これがいちばん曽野さんに聞きたかったことですが、日本財団の会長をどうしてお受けになったのですか。日本船舶振興会というのは、日本で一番印象の悪いところだったでしょう。

曽野 三つ理由があります。一つは、わたくしは日本船舶振興会の関連財団にいましたので、空気を知っていたんです。だから外側から建物だけを見て、「伏魔殿みたいなところだ」と思ったり、全く知らない笹川良一という方を、暴力団の親玉なんて思わなかった。もう一つ、聖書に「不正な富を利用して、友人をつくりなさい」と書いてあるんです。友人というのは天国の友人のことで、現世でワイロをやってご機嫌とりをしろ、ということではない。お札には「○○さんのところへどういう理由で行って、次にお妾さんのところにお手当としていって……」というような履歴は書いていないけれども、時として不正なことに使われたお金もある。でも、それが自分のところに来たときには、きれいに使えと聖書に書いてある。ああ、それでいいんだと思いました。三つ目はわたくしの一番ずるいところで、これ以上評判が悪くなりようのないところに行くのは得かなと思ったんですね。

田原 それは、簡単には納得できないな。笹川良一さんは、いってみれば日本でいちばんの悪玉だった人ですよ。

曽野 キリスト教的にいいますと、人がどうであろうとよろしいんです。人は人、自分は自分。

田原 でもそんなところと関わりをもたなくてもいいじゃないですか。

曽野 あまりに評判が悪くて、当時会長になる人がいなかったんですよ。学者がなっても傷つくし、財界人はもちろん名前に傷がつく。役人は天下りもできない。その点、小説家というのは、評判が悪くてもちっとも困らない。(笑)

田原 曽野さんを会長にした人が誰かは知りませんが、すごく頭がいいと思いますよ。曽野さんみたいにワイロなんかと一番関係のない人を財団の親分にして、一切悪口を言えなくしてしまった。

曽野 でも、わたくしが小説家になったころは、小説家というのは賤業だったんですよ。石原慎ちゃんが出てからですよ。華やかな職業になったのは。あの人が小説家のイメージをダラクさせた功労者です。(笑)

田原 でも石原慎太郎さんは、自分ではインテリやくざだといっていますね。

曽野 いえいえ、一般には慎太郎さんは一橘大学出のインテリで、『太陽の季節』的な逗子のお坊っちゃまで、裕次郎さんのお兄さんで、美男で、「すてきだわ」となっちゃった。だから慎太郎さん一人をヒナンしなくちゃね。

田原 同じことがジャーナリストにもいえますね。ずっと賤業だったのが、久米宏と筑紫哲也が出てからだめになった。(笑)

曽野 新しい知識を得ました(笑)。わたくしが小説家になったころは、「なんであの家は、娘を小説家なんぞにするんだろう」と親戚にいわれましたよ。昔から、人から蔑まれる仕事につくという姿勢だったんです。

田原 だから日本財団ですか。

曽野 そうそう。趣味なんです。きっとマゾヒズムなんですね。(笑)


国歌と国旗は必要だ

田原 さっきの話に戻りますが、戦後の日本は良くなったといっても、徳はないし、損をしないようにするし、公のために尽くさないでしょう。

曽野 それだけなら動物と同じなんですね。人間の証というものは、損ができることなんです。それに徳というのは触媒のような気がするんです。それがないと、人生がよく燃えない。

田原 曽野さんはいつごろから徳が必要だとお思いになったんですか。

曽野 さっきの教育雑誌を見た昭和二十年代か三十年代ですね。そういう貧しい教育でうまくやっていけるのかな、と思いました。

田原 日教祖は道徳などは絶対に復活させてはいけないといっていましたね。

曽野 いま日教祖の悪口をあちこちでいっているんです。たとえば国歌と国旗の問題です。アフリカの途上国に行くと、たとえば宗主国がフランスであっても、田舎にいったら誰もフランス語なんか喋らない。意思疎通はほとんど不可能です。それに赤ん坊にニッコリ笑いかけることもできないんですよ。外国人というのは呪いの目(evil eye)をもっているから、じっと見てもほほ笑んでもいけないんです。赤ん坊を抱いてもいけない。アフリカでよくそういう土地があります。
 ではどうすればこの人たちに「あなたの敵ではありませんよ」と伝えられるのか。そのときにできるのは、国歌と国旗に敬意を払うということだけなんです。

田原 ぼくらの世代も、おそらく曽野さんの世代も国家に大変抵抗感をもっていますね。家族のために喜んで死ねるし、友のためにも死ねる。だけど国家のためには死ねない。そこはどうですか。

曽野 よろしいんじゃないですか。まさにその通りで。国歌と国旗は必要で、平の教育をすべきだと思います。でも、もしいけないと思うのなら、「日の丸」も「君が代」も変えればいい。ですけれど、あの日の丸はとても描きやすいでしょう。ハトだとかワシだとかが翼を開いた絵のついた旗なんかだったら描けなくて困ります。

田原 たしかに誰でも描けますね。

曽野 あれは血塗られた旗だとおっしゃる人もいる。だけど大東亜戦争はどんなに多く見積もっても犠牲者は四百万でしょう。戦後の人工妊娠中絶は一億です。ですから旗は戦後のほうがずっと血塗られている。そもそも世界中に血塗られない旗なんてないんですよ。ハンカチがわりに鼻だの涙だのを拭かれているのが国旗というものです。そういうことがわかった上であえて日の丸を変えるのなら、それでいいと思います。

田原 どうして国歌や国旗を変えようという考えは出て来なかったのですかね。

曽野 大変でしょうからね。皆意見がバラバラで、きっと収拾できなくなるでしょうね。

田原 ぼくの本音をいいますと、やっぱり日本が占領を解かれた時点で、天皇が退位されたらよかったと思うんです。天皇制をやめるという話じゃないんですよ。昭和天皇が退位されて、いまの天皇に代われば、それで戦争に対する一種の総括ができたと思いますが。

曽野 わたくしは何でもやめるのが好きな人間なものですから、陛下もおやめになったほうがいいだろうというほうに傾くのですけど、世の中の動きはそう簡単でもないようにも思います。あのとき天皇が退位されたら百パーセントうまくいったかというと、別の犠牲が出たような気もしますし。そういうわからないことは考えないんです。そのために小説家になったんですから。

田原 でも小説家って、わからないことを考えるんでしょう。

曽野 いいえ、公のことは考えない。わからないことは発言しないことが「せめてものこと」でしょう。

田原 金大中が日本に来たら小渕さんが謝りました。あれは愚劣だと思います。たしかにかつて朝鮮半島を植民地化した、それはよくない行為です。でも謝罪というのは一回すればいいんですよね。

曽野 いつも叱られるんですけど、わたくしは謝罪しません。キリスト教徒は自分がしなかったことには謝罪できないんです。

田原 親がやったことにはしないんですか。

曽野 できません。別人格ですから。

田原 息子がやっても親は謝罪しない?

曽野 それもできません。そうしたら、わたくしのやったことを他人に謝らせることができることになってしまいます。それは一神教ではありえない。ただ、日本が朝鮮半島にご迷惑をおかけしたわけですから、その倍ぐらいのいい記憶をつくりたいと思う。逆に国家が謝るということはできるのか、田原さんに教えていただきたいです。

田原 きっと一度は謝る必要があったと思います。だけど相手の大統領が変わるたびに謝っているというのは、いったいどういう国かと思いますね。

曽野 金大中さん自身は、「二十世紀のことは今世紀中に終わりにして」とはっきりおっしゃいました、大阪で。

田原 でも新しい大統領が誕生したら、また「過去のことは私で終わりにして」といいますよ。(笑)

曽野 だから政治家ってわからない。

田原 政治家は嫌いですか。

曽野 職業としては大変嫌いです。本当のことをいわないから。本当のことをいったら票を集められないでしょう。

田原 本当のことって?

曽野 たとえば、「安心して暮らせる世の中はありっこない」とか(笑)。ただ、「政治家は好きじゃない」といいましたが、その人の政治家という部分が嫌いなんで、お辞めになったら好きになる人もいると思うんです。本当のことをいうことに命を賭けている人が好きなんです。

田原 官僚はどうですか。

曽野 若者はいいですね。去年から若い官僚とマスコミと一緒に、「世界の貧困を見る会」をやっているんです。日本財団でご招待して。ただし、いまの生活より悪くするという状況でアフリカにお連れしている。病気付き、あらゆる危険付きで(笑)。それだと饗応にならないですからね。

田原 官僚は若いときはいいんですよ。せいぜい課長補佐まではいいんだけど、課長になるとだめで、局長になったら人間じゃなくなっちゃうんですね。

曽野 またいいこと伺って、利口になります(笑)。やっぱり限りある時間ですから、何もいわない人や嘘をつく人とつきあうような時間がもったいない。ものすごく利己主義なんです。

田原 曽野さんは「国家のために死んでもいい」という方かと思っていたけど。

曽野 全然違いますよ。うちの亭主は結婚するときに、「働き者になるな、律義になるな、頑張るな」といったんです。やっぱり夫に従ったほうがよろしいですから。(笑)
 偉い人とはつきあわないのであまり知らないんですが、そのかわり貧しいほうの人脈はいっぱいあります。そのきっかけは、取材でマダガスカルに行ったときで、元サヨクの商社マンがいらしてね。彼はそこで働いている日本人のシスターに一所懸命尽くしているのですが、その人に「カジノに行きませんか」と誘われた。わたくしの書く主人公はぐうたらで嘘つきでいやな奴だからカジノにも行くに違いない、ちょっと行って様子を見ておこうと思って、「もし大当たりしたら、あのシスターにあげますからね」といいながらカジノへ行くエレベーターに乗ったんです。それでカジノでルーレットをやった。そのころは近眼でよく見えなかったので目を細めていたら、11のところがちょっと光って見えたんです。で、11に賭けるとそれが当たった。わたくしは一万円分のチップを使って早く帰ろうと思っていたのに、元サヨク氏が「次は何に賭けますか」といってくる。それでまた目を細めると、今度は29が光った。そこに賭けると、また当たったんですよ。それでやめて撤収しました。

田原 どうしてやめたんですか。

曽野 賭けがどういうものかもわかったし、手元にあるお金から元の一万円を取って、残りをシスターのところに寄付した。それがNGOのはじまりなんです。神様は教会でなくて、カジノにいるんです、私の場合は。(笑)

田原 曽野さんはどうしてそんなにボランティア活動に一所懸命なんですか。

曽野 シスターが「お金がない、お金がない」といってくるからですよ。それとお金が集まるからです。全部個人のお金ですが、九千万ぐらい年間頂くんです。頂いた以上正確にやらないといけないでしょう。それで二六年間やったんです。

田原 しようがなくてやっているんですか。

曽野 そうです。やめたら皆ヒマになります。

田原 僕は曽野さんは、崇高な精神があって、ボランティアが楽しくてしようがないという、シスターみたいな方かと思っていた。

曽野 おありがとうございます。「お」をつけなくちゃ(笑)。私たちの中では、ボランティアというのは楽しくなったらやめるべきだというのがあるんです。楽しくて嬉しくてやるようになったら気味が悪いでしょう。それは自己満足です。私たちの世界ではごく普通にそういいます。

田原 曽野さんは何が楽しくて生きていらっしゃるのですか。

曽野 人生が面白いんです。ボランティアも人間の部分は面白いですよ。素晴らしい手紙をもらったりしますし。夕陽を見るのも楽しいです。金・土・日は海のそばで暮らしているのですが、夕陽は一日として同じ光にならないんです。ある朝、アーチ型の、三〇年そこの土地にいて見たことのない虹があって、「なんだか世の終わりのようだ」と思ったんです。そしたら翌日の朝、チースリックというキリシタン研究家で、文言通り日本に骨を埋めた神父さまがなくなった。「あ、明日迎えにおいでになる、ということだったのかな」と思いました。そういうのも面白いじゃないですか。


『サンデー毎日』との衝突

田原 最近『サンデー毎日』と曽野さんとの間で事件がありましたね。

曽野 わたくしは東京生まれの東京育ちで、職業差別をいったり聞いたりしたことはありますが、被差別部落の問題は一度もなかった。みんながそうだとはいいませんが、そういう人はわたくしのまわりに何人もいらっしゃる。「長じて、東京にもそういうふうな町があって、特定の職業の方がいると教えられました。みんな後から教え込まれたので、教えないでください」と書いたんです。すると「そういうことを書くのはよくない」といわれました。

田原 「教えないでください」というのはよくないと?

曽野 それで書き直せとおっしゃいましたから、わたくしは明らかに客観的間違い、たとえば「田原さんは女である」とかならいけないだろうけど、そうでなかったら通してくださいといいました。署名原稿というのはわたくしが責任を負うわけですから。それでもだめだというので「私日記」という連載をやめたんです。

田原 部落解放同盟とかから抗議はくるんですか。

曽野 全くありません。いいたいことをいっていますが、ほかの方々同様に、おおらかなところだと思っています。

田原 僕が部落解放同盟の人との座談会で「昔に比べれば、最近は差別の問題はずっと減ってきたと思う」といっても、全然拒否反応はないですよ。

曽野 「私たちは」ではなくて、「わたくしは」の範囲でいっただけなんです。小説家は正しいことをいわなきゃいけないということもないですし、独断と偏見というのが小説家の態度でしたね、少なくとも賤業の時代は。

田原 嘘をつくのが商売ですからね。

曽野 そうです。うちの主人がよくいうんです、「学者は本当のことをいわないと怒られる、小説家は本当のことをいうと訴えられる」(笑)。世の中にはいろいろな立場があるので、めいめいが自分の立場を知っていてお許しいただいて、その範囲で活躍するということじゃないですか。

田原 そういう意味では、日本はずいぶんタブーはなくなってきたでしょう。

曽野 戦後のマスコミが一番ひどかったですよ。まず最初は、創価学会の悪口をいってはいけない時代がありました。それで阿川弘之さんとわたくしが「寿限無寿限無のことはいえない。寿限無寿限無のことについて書くと、その原稿は載らない」という文章を書きました。次が中国。中国がいい国であると書かない者は、全部おろされました。産経新聞を除いてみんなだめでしたね。そして差別語。「びっこの椅子はいけない」みたいなことを書いて、何かいってくるだろうなと思うと、そこの部分の字数を数えて、別の言葉に変えたものを秘書の机に貼っておいて、「電話がかかってきたら、こっちに変えなさい」と。一種の厭味ですね。私は人を「びっこ」といったことはないです。でも「びっこの椅子」とは書こうと思う。ずっと書いていますが、わたくしのところに障害者から文句が来たことがないですよ。
 わたくしは目の悪いとき、「ド近眼ッ」といわれて、手を引いてもらいました。とてもうれしかったですね。「あなたの目、悪くないわね」といわれるより、ずっといい。だから言葉じゃないと思います。差別語を使わなきゃ差別してないということもないんですよ。

田原 それはそうですね。放送禁止用語をいっぱいつくっていい換えているのは、差別している証拠ですね。

曽野 マスコミはひどいですね。わたくしは最初から「署名原稿なのですから、もし反対の方がいればわたくしがお受けします」といっています。「最高裁まで自費でお相手します」といっているんです。あまり書かれると困りますけど。(笑)


インチキ宗教の見分け方

田原 徳が欠落しているとおっしゃいますが、どうすればいいんですか。

曽野 私たちが到達できない別の美学があるということを、強要するんじゃなくて、見せることが必要だと思いますね。わたくしなんか見せられました、その徳を。

田原 どういうふうにですか。

曽野 「生きて二度と再び祖国に帰らない」という決意で日本に来た修道女に。彼女たちは戦争中は静かに日本の軍部に屈しませんでした。御真影にお辞儀をしましたし、神社の掃除にも行きましたけれど、屈したわけではない。シスターたちはそういう徳をもっていました。

田原 日本人はどうすれば徳をもてますか。

曽野 神がないですからね。

田原 天皇はだめですか。

曽野 天皇は一人一人のしたことを覚えていませんね。

田原 神は全部覚えている?

曽野 覚えている。そこが違うんです。よくいうんですが、フランスの姦通小説が素敵なのは夫や妻を騙すだけでなく、神も騙さなきゃいけないからなんです。

田原 日本はたかが夫、妻を騙すだけだからテンションが高くならない。曽野さんが『失楽園』みたいな小説をお書きになったら、すごく面白いですね。

曽野 すべての人の中に神がいるということを証明しようと思って書いたのが、『天上の青』という作品なんです。連続殺人を犯す人の中にも神がいることを証明したかった。キリスト教にはそういうテーマがあります。

田原 キリスト教じゃない日本人はどうすればいいですか。

曽野 なにか人間を超越した存在と人間との分際をわきまえることです。超越したものがないと、人間の分際がわからないんです。

田原 ということは、創価学会でも天理教でもいいんですか。

曽野 申しわけありませんが、わかりません。何と教えているかわからないんですもの。

田原 宗教はオウム真理教にいたるまで神をもつわけですね。

曽野 宗教がインチキかどうかという問題についてですが、三つ基準があるんです。一つは、教祖が仏や神の生まれ変わりだといわないこと。次に教祖が質素な生活をしていること。三番目に、信仰の名のもとに金を強制的に取らないこと。この三つにひっかからなかったら大丈夫です。(笑)
 キリスト教でたとえば正義というと、横の関係というのはまったくなくて、神との縦の関係だけなんです。少数民族は正しく扱われるとか、裁判は正しく行われるとか、そういうことは一切入っていない。神とその人との無言の関係だけです。神と人間との折り目正しい関係を「義」といいますが、人間ですからつい楽なほうに傾きますよね。それで「義」が狂ったときに路線修正をするだけ。だから世間がどうだとか、そういうことはあまり関係ない。

田原 でも曽野さんは電車の中でマンガを読んでいる若者をみっともないと書いているでしよう。

曽野 でもご当人にはいわないのよ。私一人がヒソカに思ってるだけ。

田原 すると曽野さんにとってああいうものをお書きになるのはどういうことなんですか。

曽野 人生はプラスの面でもマイナスの面でも面白い出会いがあって、そういう話があまりにいっぱいあるから、書いておこうと思うだけです。いい話だけを書かないということです。そして自分の身に悪いことが起こると死にやすくなる。「ああ、こんな嫌な世の中、死んだら楽になる」とよく思ってます。

田原 世の中は悪いほうが死にやすいわけですか。

曽野 ずるいけど両方なんです。いいことがあったらそれを覚えておくと、それも死にやすくする。両方ないと完全じゃないような気がする。

田原 いまの日本はちょうどいいじゃないですか。いいこともいっぱいあるし、悪いこともある。

曽野 いいですね(突)。だからいい国だといっているんです。わたくしが一番嫌いなのは政治家ですが、その次につきあわないのが「あなたは幸せね」という人です。幸せだけしかない人はいないんです。だからそういう人生の見方をする人とはつきあわない。あとはどなたとつきあっても感動しっぱなしですよ。

田原 かつては曽野さんも戦う目標がいっぱいあったけれど、マスコミがひざまずいてしまったから、張り合いがないんじゃないですか。

曽野 そんなことはないですよ。書くテーマはいくらでもあります。普通の人が悪を見なくなったでしょう。作家としてのわたくしは悪を書ける。人間の悪に光を当てるということは意味があるんです。いまはみんな自分はいかにヒューマニストかという大合唱ですが、片方が欠落している。
 それから、いまの人間は運命というものがわからなくなった。どんなに頑張っても、運命というものがあることを承認しなくなりましたね。それが日本人の一番不気味なところです。

田原 曽野さんは悪に惚れているわけではないんでしょう。
曽野 悪にも善にも両方惚れています。なぜかというと人間は光は描けないんです。印象派は影を描いた。それと同じです。闇をしっかりと書けば、光が書けるかもしれない。それしか信じられないんです。でもときどき「いい人」に会うと、ホロリとして書きたくなる。そういう分裂も許していただきたい。


女帝もいいのでは

田原 最後に、日本の皇室はどうなっていくと思われますか。

曽野 わたくしはいま、邱永漢さんのいわれる一番幸せなポストにあります。「小金のある小市民」なんですね。あちらは大旧家でしょう。そういう意味でどんなに大変でいらっしゃるだろうかと思いますけれど、世界の王家の中で一番ストイックな優等生なんじゃないですか。

田原 ストイックなのはお気の毒だから早くおやめになったほうがいいという声もありますね。

曽野 おやめになりたいとお思いかもしれませんね。でも、国民として見ればあれほど効果のあるホスト役はいないですよ。共産圏の人でもだれでも、皇室の方に会った話ばかりしています。ゴルバチョフの奥さんのライサも「天皇、皇后両陛下にお会いしてきた」といって喜んでいました。橋本さんに会ってうれしいとか、村山さんに会ってうれしいという国賓はいないですものね。

田原 だから大事にしたほうがいい?

曽野 国民にとってはね。

田原 せっかく大外交官がいるのだから無くす必要はないと。

曽野 国民の一人としての功利的な見方です。どなたか皇室が交代で京都にいらしていただきたいとさえ思ってます。それで国賓がいらしたときに、衣冠束帯でご謁見なさっていただきたいと思っています。

田原 これはやや現実的な問題ですが、女帝というのはどうですか。

曽野 いいと思いますよ。女帝というのは、すごく平和的でいいですね。「皇室典範」をお変えになるの、大変なんですか。

田原 たいしたことはないでしょう。

曽野 早くお変えになったほうがいいですねえ。他人のおたくのことだと思って簡単にいいますけど。(笑)
 



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