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新年の最初の日曜日にシンガポールのカトリックの大聖堂に行くと、エピィファニイ(御公現の祝日)に当たっていた。 相変わらずフィリピンから出稼ぎに来ているメイドさんたちが主力だが、中国系、ヨーロッパ系の人たちもたくさん加わって、数百人が今年も家族が健康で暮らせますように、病気の知人が治りますように祈りに来ている。 いつも使ったことのない英語の祈祷書を与えられて読んでいるうちに、二つの発見をした。もちろんイエスの存在など信じない人もいるだろうが、物語としてもそこにはかなり深い意味が隠されている。 聖書はイエスが生まれた時、東方から三人の博士が星を頼りにやって来て、乳香と没薬(もつやく)と黄金を捧げたことを記している。私は今までこの三つの贈り物のことなど、深く考えてみたこともなかった。この三つの品は非常に貴重なもので、現世の王に捧げる贈り物である。 黄金については説明を要さないだろう。没薬は宗教的表敬を表す時の贈り物であったとされる。乳香は香りのよい樹脂で、化粧用、埋葬用、薬品としても使われた。 これらは、俗世において最高とされるもので、イエスの父母がそれを受け入れた、とすると、それを現実的に取る人もいるだろう。「いいなあ。そんな高いものをもらって売り飛ばせば、貧しい大工さんの一家も潤ったろうなあ」ということだ。しかしその後のイエスの生活を見ていると、お金に執着したという聖書の記録は全くないし、お金は魂のために賢く使い、軽く見なさいという話ばかりだから、イエスの父母がそれをありがたがって受け入れたという心理的な背景はない。 しかしその物語には、違ったものの価値判断をする人の行為を、柔らかに、温かく、感謝して受け入れる、という姿勢が見える。突っ返すのではないのだ。「ありがとう」と言って、受けた好意やお金や物や技術を、自分がいいと思う方向に使うのである。 これは公務員に対して、贈賄を受け入れなさいということではない。しかし現在、世界にたくさんある異なった思想に対して、私たちはこうありたいと思うのである。それができないと、破壊的な原理主義者やテロリストたちと同様、違った考えの人は抹殺しなければならない、と考えるようになる。 私たちは実にめいめいが違った自己中心的な生き方をしている。私など自分がいかに世間の常識からはずれた考え方をしているか、ということを日々思い知らされ続けて生きて来た。ほんとうは人間は誰もが程度の差こそあれ、例外なくどちらかに偏っていて、誰からみても、礼儀正しく中庸で賢く、始末のいい生き方をしている人などごく少数しかいないのだが、人間は、自分だけはまともで、正しくて、穏当で、目があって、ぼけていない、と感じている。 柔らかく受け入れて、自分は変わらない、ということは実は至難の技であるらしい。
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