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著者: 山田 吉彦  
記事タイトル: マラッカ 2  
コラム名: マラッカ海峡の町から 第3回  
出版物名: 海上の友  
出版社名: (財)日本海事広報協会  
発行日: 2001/06/11  
※この記事は、著者と日本海事広報協会の許諾を得て転載したものです。
日本海事広報協会に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど日本海事広報協会の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 陸の人々が決めた国境という壁は海峡の民には無関係だった ≫

 一隻のダウ船は、六千頭のラクダに匹敵する。

 ダウ船は、ペルシャ湾からインド洋にかけて交易に活躍した木造帆船。

 日本では、まだ平安文化が花開いていた頃、ラクダの背中に荷をのせたペルシャ商人たちが、シルクロードを行き来していた。

 灼熱の砂漠を横切リ、崑崙の山々を越え、時には盗賊たちに脅かされ、遙か唐の都を目指し、交易の旅を続けた。

 一頭のラクダに積める荷は、せいぜい三百キロ程度。何十頭ものラクダを連ねるキャラバンであった。

 九世紀になると、イスラム商人は船に乗り、中国南部の海岸を訪れるようになっている。ペルシャ湾から中国の港まで一万キロにおよぶ「海のシルクロード」ができていた。その中心がマラッカ海峡。

 当時のダウ船は、三百総トン程度の大きさであり、積載貨物量は百八十トンほどだった。

 ダウ船は「海のラクダ」と呼ばれ、イスラム社会と中国を結ぶ重要な交易手段であった。

 マラッカの喧騒の発信源は、今も港にある。

 マラッカ港は、マラッカ川の河口に作られている。マラッカというとさぞや大きな港と思うかも知れない。しかし、今までは、川幅五十メートルにもみたない河口に小型の木造船がひしめき合う小さな波止場。

 港では、ダウ船の流れをくむ、ずんぐりとした船体の木造船が並び、褐色に日焼けした肌がひかるマレー系の人々が荷を肩に担ぎ積み込んでいた。流石に船は、エンジンで動いているようだが、港湾作業は、昔ながらの風情である。

 マラッカに来る船は、海峡対岸のインドネシアを結ぶ船と国内航路がほとんどである。

 マラッカから海峡を越え、スマトラ島中部の都市ドマイまでは、高速フェリーで約二時間。車で首都クアラルンプールに行くのとほぼ同じ時間でインドネシアヘ着く。

 人々は、昔から海峡を自由に行き来してきた。インドネシア側のマラッカ海峡内にあるペンカリス島、ルパット島には、マレー系の人々が暮らす村が今も残っている。数十年前まで人々は、国境など関係なく、海峡の民として生きてきたのだ。

 十五世紀に明の永楽帝により派遣された鄭和の大鑑隊がマラッカを訪れ、マラッカの繁栄が始まったと言える。三百隻にものぼる大船団を目の当たリにして、さぞ海峡の人々は驚いたことであろう。

 明国の海禁政策により、鄭和の鑑隊が去ったあと、海峡の人々には、紆余曲折の歴史変遷が始まった。

 鄭和が通ったアジアと中東をつなぐ海の道は、イスラム商人に盛んに利用された。海峡の繁栄は、イスラム商人に頼るところが大きい。十五世紀中頃、マラッカ国王は、イスラム教に改宗し、スルタンと名乗るようになった。

 しかし、十六世紀に入ると、東洋の香辛料の魅力に強く引かれたヨーロッパの国々の船が、海峡に頻繁に現れるようになった。ついに、一五一一年ポルトガルは、マラッカを武力で占領した。その後、マラッカは、アジアにおけるヨーロッパ諸国の覇権争いの舞台となり、オランダ・イギリスと統治国の代わる植民地時代が続いた。

 安定した生活を失った海峡の民は、海沿いの村々に散って行き、ある一部は、海賊として生きて行くことになった。

 現在、海峡の真ん中には、国境という見えない壁が存在している。この壁は、陸の人々が決めた壁であリ、海峡の民には、無関係であった。

 海の民は、自由の民。マラッカ海峡の海賊たちには、歴史を翻弄した異邦人への抵抗が根底にあるのかもしれない。
 



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