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一九九七年七月二十一日 畳五、六枚分の東京の自宅の畑は貴重だと思っているが、長い外国旅行から帰ってみるとプチ・トマトだけはすばらしい勢いである。毎日大ザル一ぱいずつ採れている。 台所のナマゴミを発酵させた肥料を使っているので、地力はあるのだが、その代わりオクラはほぼ全滅、モロヘイヤも枯れてはいないが、肥料の効きすぎという顔。茗荷は納屋の軒先みたいなところで作っているだけなのにかなりの肥料食いで、うちで食べるだけはたっぷりできる。 赤カブは適切な時に採らないので実が割れてしまった。何でも適切ということがある。生死もまた同じだろう。旧約聖書の「伝道の書」はそれを「すべてのわざには時がある」という言葉で言う。 「生まれるに時があり、死ぬに時があり、 植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 (中略) 愛するに時があり、僧むに時があり」 すばらしい真実である。 友人と久しぶりに長電話。普段電話嫌いなのは、心が急いているからだとわかる。 その人のさらに知人の話。別れた夫が娘の結婚でも、全くお祝い一円贈らず、死んだ時には一億円に近い財産を残していた。それをすべて知り合いの女に贈る、という遺言を残していたと言う。この娘は家庭を持って幸せになっているからいいようなものの、父親というものにさぞかし幻滅しただろう。彼女は二人の子供を抱えたサラリーマンの妻で、時々は自分を憎んでいるような態度の父親も見舞っていた。 このもののわからない父親が東大法学部卒。鈍才大学を出ても、この人よりまともな人はいくらでもいる。 「そんな遺言は無効なんだから、取っておやりなさいよ」と私。「そうするんじゃない?」と友達。電話を切ってからも後味が悪い。しかしこういういさかいでも、深く憎まず、ものやお金を多く取らなかった方が勝ちである。 七月二十四日 日本財団では会長の権限が大きいというので、それでは私の好みで制度を少しいじります、ということにした。 この間の外国出張の飛行機の中で、私の斜め前のビジネスクラスの席に、会社の出張らしい若い男性が座った。 夕食の時、その男性がキャビアとシャンパンで食事を始めた時、私は突然、或ることを決意したのである。どう考えても、二十代、三十代の若者が、キャビアでシャンパンを飲むことはない。日本財団では十時間、或いは一晩を越すような長距離には、若い人でもビジネスクラスに乗ることを許しているが、これからは、こういう惰弱な空気は排除することにしよう。 もちろんキャビアでシャンパンを飲んだのは、彼の責任ではない。その路線では、すべてのビジネスクラスの客に、キャビアとシャンパンを出していたのである。 私自身、五十になるまで飛行機はエコノミーに乗るものと決めていた。取材費は出版社などに出してもらわずすべて自費だったからでもある。 今後、財団の職員は三十九歳までは、いかなる長距離といえどもエコノミークラス、と決めて発表した。 私は安い旅をしたおかげで、どれだけ人生を味わったかしれない。日本人の妻になったメキシコの美女と隣り合わせてかなり長い間話したこともある。シンガポールから、東マレーシアのコタキナバルに向かう男は、エビの養殖場で働いていた。彼は字が書けなかったので、私が代わりに入国の申請用紙に記入してあげた。そこには、サマセット・モームの短編の残り香のような世界が残っていた。 つまりこの決定は、若い人人に同じすばらしい人生の記憶を持ってもらおうという「親心」のつもりである。 今週は二十二日に評議員会が開かれたが、今日は理事会である。理事会では私が議長になるので、長い長い審議事項を読みあげねばならない。たいてい途中でとちる。 今日、珍しく早口で読めたら、笹川陽平理事長が「今日はお上手に読めました」と褒めてくれたのでこちらもニッコリ。間違えたり、つっかえたりするだけでなく、一度などほんとうに噴き出したのである。あまりに長い文言が続く「……の件」というのを読んでいるうちに、どうしてもおかしくて笑いが止まらなくなってしまった。 夕方は砂防会館で行われる「緑の募金審査会」。内外の植林に関係したボランティア活動のプランに対して、活動の費用を与えるものである。 苗木はいいけれど相手方に現金を預けるのはいけない、などと、相変わらず人を信用しないことを言うのが私の役目である。アフリカの多くの土地では、植林をしても水をやることを知らない人もいる。山羊や牛は若芽を食べてしまうから、防御柵を植林と同時に作らねばならない。さらに若木が少し伸びれば、旱魃の時にすぐに燃料として切られてしまう。人生をまともに考えると疲れるものだ。 七月二十五日 久しぶりに三戸浜(三浦市)の家。夜は一人で畑のナスを焼き胡瓜のサラダを作る。台風9号の荒波の音の中で、旅行後初めて熟睡した。
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