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胡志明の住居で ホー・チミン氏を漢字で書くと「胡志明」であることを知った。初秋のハノイで、ホー・チミン廟を訪ねたのである。総大理石造りの威容は、クレムリンや北京の人民大会堂で経験したあの威圧感と同じ雰囲気をかもし出している。なんとなく入るのにためらいを感ずる。幸いなことに(?)、館内修復のために休館とのことで、裏手にあるフランス植民地時代の植物園を散策した。 なにがしかの小額紙幣の入園料とひきかえに、手渡されたベトナム語のパンフレットに、HOCHI MINHの下に「胡志明」と印刷されていた。「ホーさんは、胡さんだったのか」。何を隠そう、一人で、そう合点したのである。胡主席が住んでいた高床式の木造の家がそのまま残されていた。一九五八年に建てられたというこの住居には、小さな木の机に、読んだ書物の一部や、時計が生前そのままに並べられている。ガラス越しに見る室内にはチリひとつない。これも生前と同じように毎日、だれかが掃除しているのだろう。ベッドが、小さくて細い。ホー主席は生涯独身だったというが、それも一目で納得である。 北爆の最中も、ホーさんはここに住んでいたという。米軍はハノイ空襲で総計八万トンの爆弾と焼夷弾を落としたというが、大使館や政府の建物の多いこのあたりはあらかじめ目標からはずされていたらしい。高床式住居の隣には、マンジュウ型の山が残っている。住居の地下から直接避難できる防空壕の跡だ。ホーさんは、何十回この壕に入ったことか。でも直撃弾はなかったとのことだ。 通訳のチンさんが「ホー主席は、家の前の池を散歩するのが日課で、いつもベトナム人の生活を豊かにすることを考えていました」と解説する。池には鯉がいる。ホーさんが餌づけした鯉だという。ジャスミンの隣に一見、けやきのような太い木がある。幹からタコの足のように枝がぶらさがっている変てこな木だ。まさに「この木、何の木、不思議な木……」だ。もっと奇妙なことに幹の周囲の地面から、タケノコのように木の塊が垂直に林立している。木の根っこが、空中に出ているのだ。木塊の模様がお地蔵さんや、仏像の顔に見えるものもある。 木の名称を示す木札に、ベトナム語で「BUT MOK」とある。ホー主席の命名とのことで、仏像に似た木なので、そうなったという。漢字で書くと「仏木」である。ところで、ホーさんはなぜ「胡」ではなく、BUT MOKは、「仏木」でないのか。それは、この国の反中国の民族意識の産物である。話は紀元前一〇〇年にさかのぼる。中国の統一王朝である漢の時代、雲南省から海に出る最短ルートとして、漢民族は紅河を支配下におさめた。紅河の扇状地がハノイなのだが、以後千年にわたってベトナムは中国の属国となった。ベトナムが漢民族に勝利して独立したのは西暦九三九年であった。その後、チャン朝の時代に、中国漢字から文化的独立をはかるため、「チェーノム」という独自の文字を作った。それがいまのベトナム音標文学の起源なのだ。さらにフランスの宣教師が、「チェーノム」をローマ字に置きかえ、ベトナムのQUOC NGU(国語)となった。十八世紀の出来事である。 ベトナム語、日本語、韓国語、そして北京語の発音はかなり似ている。それもそのはずだ、元は一つの漢字だったからだ。ベトナムでは、「国語」は、「クォグー」、韓国語は「クーゴ」、北京語は「グォユウ」と発音する。日本の「コクゴ」と発音に共通点がある点が興味深いではないか。 一九八八年、ベトナム社会主義共和国は憲法の前文を修正し、侵略者であった中国、フランス、日本、アメリカに対する批判文書を削除し、九一年には中国と国交正常化し、九四年にはアメリカは対ベトナム経済制裁を解除した。「国民生活向上優先」というホー・チミン思想を実現するため、社会主義への迂回装置として資本主義のやり方をとり入れ、かつ外国に対しては“開かれたベトナム”をモットーとするドイモイ(刷新)政策の産物である。 「ドイモイとは花(思想)より、ダンゴ」のベトナム版とでもいえようか。そこで同行のチンさんに、あえて問答を試みた。「中国人をどう思う」=好きじゃないが、大嫌いでもない。「アメリカ人は?」=嫌いだったが、今は好き。「ロシア人は?」=今も好き、でも最近来ないね、どうしてるんだろう。「フランス人は?」=やっぱり好きだね、旅行者は一番多いよ。「日本人は?」=アッハ、ハッ、好きですよ。「どうして?」=日本人のビジネスマンは、ベトナム人に威張らない。社長もベトナム労働者と一緒に食事をする……。 「花よりダンゴ」時代のベトナム民族主義の一端である。 だが、油断してはならない。イデオロギーに支えられたベトナム人民族主義は地下水のように脈々と流れている。ハノイで、ベトナム労働・傷病軍人・社会事業省の第一副大臣、マダム・グエン・ティハンに会食に招かれたときの会話だ。彼女は年齢五十歳がらみだが、若いときは超美人だったろう。レストランの名称が「インドシナ」であったので彼女に聞いてみた。 「インドシナ料理とは、ベトナム料理のことか?」「とんでもない。ベトナムはインドシナではなく、ベトナムです」。「ではインドシナとはどこか」「そんなものは現存しません」。彼女は毅然としてそう答えた。インドシナとはフランスの命名である。彼女は言外に「植民地主義断固許すまじ」と訴えていたのだろう。ちなみに、このマダム副大臣は、北爆の最中、高射砲弾を女の力ではとうてい考えられないほど背負って陣地を何度も往復し、「戦争英雄章」に輝いた人だった。日本語で表現すれば「火事場のなんとか力」をいかんなく発揮した女傑である。
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