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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 人生の成功?破壊でなく生成に働けば  
コラム名: 自分の顔相手の顔 163  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/07/28  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   東京湾上に浮かぶ作業船の上で許されたお月見は、案じていた通り雲が厚くてとうてい煌々(こうこう)とした月光は期待できそうになかった。
 私が一晩そこで仕事をする人たちから話を聞きたいと思ったのは、作業が日の出から日没までと聞いたからであった。海上のことでもあるし、安全を考えて昼間だけなのかもしれない。とすれば宵の口なら、当直の人たちは手が空いていることになる。
 偶然、私たちの同行者の中に一人、尺八を吹く人がいた。今まで私は評判だけ聞いていたが、腕前を耳にする機会がなかったのである。ひとしきりビールが入った頃合にその人が尺八を吹いたのだが、その音に合わせるかのように、月が雲間から現れたのである。
 そんな偶然があるものとも思えないが、ほんの数分、月は紗(しゃ)のような雲を顔にかけて現れた。ひっきりなしに羽田を離着陸する飛行機と、作業船では一刻も止むことのない発電用のエンジンの音との間でも、尺八は虚無僧(こむそう)の静謐(せいひつ)を思わせて響いた。こういう不思議な瞬間を、都会の空間は用意している。
 もっともこのお酒には、船長はいささか苦い顔であったと思う。私は知らなかったのだが、作業中には、酒気は一切禁止している、と後で聞いた。現場はどこも安全のためにストイックなものなのである。もっとも私が恐縮すると、今日は作業は終えていますから、と優しい配慮もある。
 隣の作業船との距離は四、五百メートルはあるだろうと思うが、暗闇の海面ではすぐそこに光があるように見えてまさに「お隣さん」という感じである。あそこの夕飯のおかずは何だろう。料理人がいるわけではなし、男たちの手料理には案外な達者もいるかも知れないが、普通なら手抜き料理と考えるべきだろう。
 こちらがビールなんか飲んでいるのを見て向こうは「ふざけるな」と怒っているかもしれない、と柄にもなく気が小さいことを言うと「なあに、あっちはもう今ごろ寝てますよ」と言われた。朝が早いから、夜は健康な眠りが早めに訪れるのだろう。発電のためのエンジンの音も、眠りを妨げるどころかすばらしい熟睡を贈ってくれる。不眠症に苦しむ陸の上の人たちには、想像もつかない健やかさである。
 かつてのゴミ捨て場「夢の島」は、工事の途中ではハエで有名だったが、今ではマリーナや公園を擁したしゃれた島である。「マイ・フェア・レディ」は訛もひどい田舎娘が、立派な淑女になって行く過程を描いたミュージカルだったが、「夢の島」もまさにそれと似た変身の仕方である。
 すべてのものは移り変わり、過ぎて行く。私たちは生まれ合わせた「時」に、仕えることが大切だろう。破壊するためではなく、生成のために少しでも働ければ、それだけで人生は成功だったとさえ思える。
 飛行機の音は九時を過ぎるとぴたりと止んだ。
 



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