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一九九八年二月十五日 昼頃、成田発、ロンドンヘ向かう。五月に天皇・皇后両陛下が英国とデンマークをご訪問になる。日本の皇室とはどういうものかを、この二国のマスコミと関係者に知らせる講演を三浦朱門が相手国で行うので、私は自費で、それについて行くのである。 長い間、夫が働いている間に妻は遊んでいればいいという旅行が私の憧れであった。米日財団の理事をしていた時も、アメリカで会議があると、理事の奥さんたちのためにはレディース・プログラムというのがあって、観光や買い物をしていた。私は女性なのに会議に出なければならない。一度くらい長年したかったことをしようということなのである。ロンドンは十六度もあって暖かい。 二月十六日 まずディロンズ(書店)へ。いつもここで本選びに三、四時間は使うのだが、今回はそれほど時間はない。目的はラテン語の辞典の適当な大きさのを買うことなのだが、私はラテン語など全くできないのである。ただ、今、三枝成彰氏とレクイエムを作っているので、歌詞の部分でどうしても元がわからないと困るところが出て来た。それを推測しようというのである。ついでにエジプトの古文書集三巻とデモステネスの短い演説集も買う。デモステネスのほうは、「傭兵」について書いてある部分が目についたからだ。マースナリイという言葉は「金目当ての」という形容詞もあるらしいから、いずれにせよ、人間の生きるための原初的な動機で、全く高貴でないところが好きなのである。 ハロッズ・デパートにも、大きなサイズの服がほしくて寄ったのだが、あまりに高いので一枚も買わず。食堂で昼ご飯。 午後、大使館で三浦の講演。日本に「女帝」のお出になる可能性はあるだろうか、という質問もあった。終わって大使公邸で、すばらしくおいしい日本料理を頂く。 二月十七日 コペンハーゲンヘ。 『ザ・タイムズ』の一面は、「空爆は週明けに始まるだろう」とある。その下にある砂漠の砂塵の中の兵員輪送車の写真は、兵士たちの群像と共に乾いたセピア色の世界で、実に美しい。クウェートのイラク国境から三十マイル以内に配備されたアメリカの海兵隊だという。日本では、戦いに関するものは写真を褒めても叱られるから、これは悪の美しさだと言っておこう。私は作家だから、悪の美しさもまた大切にしたい。日本ではまだオリンピックの記事が第一面に載っているのだろうか。そうとすれば、日本のジャーナリストの感覚は大分ずれている。 ブレア首相がクリントンのイラク侵攻を承認したためだろう。報復のテロを意識してかヒースロー空港の手荷物検査は厳重を極めている。 午後三時半コペンハーゲン着。三十六年前に泊まったホテルのすぐ傍の高層ホテルから駅やチボリ公園を見下ろす。夜、大使公邸に三浦と共に私もお相伴にあずかる。皇后陛下の御歌集について、音楽との深い繁がりについて、また阪神淡路大震災の後、被災者の受けた心理的な傷について真っ先にご心配なさったのは皇后さまだったことなど、私なりのデータも大使館に差し上げる。 二月十八日 午前中、クローネンボー城に立ち寄る。風が凄まじく強く、ハムレットのモデルのお城だというが、出て来る幽霊も寒いはずだ。今度両陛下がお泊まりになるフレーデンスボー城を見る。ここは夏の離宮と呼ばれているが、マルグレーテ女王のお気に入りの住まいなのだという。外からも改装中。ヨルダン国王も見えられると言うし、女王がお客さまのために準備をされている風情が窺える。 フレデリクスボー城は一種の美術館だが、その礼拝堂で、先頃、女王の次男の王子と香港の女性の結婚式も行われた。ここで両陛下の答礼晩餐会が行われるという広間も見た。どこでお料理を温めるのだろうか、と余計な心配。電気のソケットも見当たらならい。しかし蝋燭だけもすばらしいだろう。 帰りに「イダおばさんの店」のオープン・サンドイッチ。日本でもこういうのを、私なりのコンビネーションで作ろう、と決心したまではよかったが、今朝方飲んだジンマシンの薬がますます効いて来て、ホテルヘ帰るなり一服盛られた被害者のように眠る。目覚めたのは夜九時少し前。 十時過ぎに仕事を終えた三浦が帰って来た。講演会場で皇后さまとほぼ同じ年代の女性で、女王の女官長をしているこの国の聖心の卒業生にお会いしたという。皇后さまのおいでを大変お待ちしている、同窓生として私とも会いたかったと言ってくださった由、申しわけないことをした。 今度は寝られないので、夜通しワープロで仕事。 二月二十日 夜、マドリッド着。 三浦朱門は今、日本民謡協会の理事長をしている。「へ?三浦さん、民謡なんて歌えるわけないじゃないの」と私の友人はばかにするが、理事長は歌えない方が依怙贔屓しなくていいのだそうだ。明日はここで両国の歌と踊りの親善大会が行われる。
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