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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 病気の治癒?コンピューターで治せる…か  
コラム名: 自分の顔相手の顔 226  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/03/30  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   最近、あちこちの病院で、間違った注射をするとか、患者を取り違えるとかいう事件が起きる。患者の中でも、わがままで嫌われ者とか、しつこくてやかましい性格とか、目立つほど太っている人とかなら間違えられないのだろうが、おとなしい、性格のいい、中肉中背の患者さんほど被害に遇(あ)い易いのだとすると、ほんとうにお気の毒でならない。
 しかしこの問題は医学の本質の破壊が潜在することを示している。
 患者を癒すということは、手術をしたり、薬を与えたりすることだけではないのだ。むしろ話し相手になり、その人と一定の時間を共有することである。というか、医師が自分の時間をその患者に捧げることだ。
 人間を死から救うという意味を表すギリシャ語を、二つ教えてもらったことがある。
 一つは「ソーゾー」という言葉で、死から救う、生かす、保つ、見守る、心に留める、記憶する、というような意味がある。
 もう一つの言葉は「セラペウオー」でこれは、セラピイの元になる言葉である。この言葉には、治療する、癒す、仕える、というような意味がある。
 だから病気を治す、ということは、徹底して人間的な行為なのだ。まず相手をしっかりと心に留める。その人の苦痛や症状を見守り、記憶する。病人はもしかするとわがままを言う。しかし癒す人はその患者に、威張って命じたり、上からたしなめたりするのではなく、むしろ仕えるのだという解釈である。
 人間が人間を大切に扱う時、病人は治るとギリシャ人は考えたのである。
 私は、実母、夫の両親と共に住んだのだが、その三人が、非常に好きだったのは、近くに住むホーム・ドクターだった。
 「なあに、おばあちゃん、死ぬ時は一回っかないんだから、今度も治るよ」
 とそのドクターに言われると、普段はなかなか理屈っぽく反抗的な姑が、よくおかしそうに笑っていたのを思い出す。
 無責任と言えば無責任な言葉なのだが、それは真実だった。更にそのドクターはちゃんと姑という人を見てものを言っていたからよく効いたのである。つまりドクターのその言葉は、明らかに彼女の性格や存在をはっきりと意識した上での言葉だったのである。
 アラブのある部族の女性は、今でもヴェールで顔を隠している。診察を受ける時でも外さない。一方、厳しい砂漠で生きることは、子供のある未亡人には厳しいことだから、男は責任を持って四人までの妻を持つことを許された。それで複数の女性とその子供たちを生かしてやることができる。
 しかし湾岸の国で会った日本人のドクターは、ヴェールで顔を隠した女性患者は怖い、と言った。たとえ夫がついて来ていても、その患者はどの人か、何番目の夫人なのか、顔で識別できないから実感がないのである。人間を無視してコンピューターで診断しても、恐らく病気は治らないのである。
 



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