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私は日本語版の「ニューズウィーク」の定期購読者なのだが、中でも「パースペクティヴズ」という世界の有名人の発言を抜き出したページを愛読している。今週はブッシュとゴアの言葉が載せられている。ブッシュのは「私は一つの党ではなく、一つの国に仕えるために選ばれたのです」というものだ。ゴアは「戦うべきときには全力を尽くして戦い、それが終わったら心を一つにして団結する。それがアメリカだ」と言っている。 どちらもまあ体裁のいいことを言うものだ。アメリカ的公式見解というものはそういうものなのだろうが、全く幼稚でつまらない。私だけでなく、シェークスピアでも、バーナード・ショウでも、およそ文筆に携わる者なら、この言葉を聞いたら、顔をしかめるか、笑うかするだろう。おきれいごとは、創作の世界では全く通用しないのである。 「覇権国家になろうとした国は、歴史上数えきれないほどある。そうした国がどうなったかは、周知の事実だ」というのはプーチン大統領の言葉だそうだ。覇権主義を取るだけの力を失わなければ、人はこういう賢こげなことを言わない。 「この選挙には、いつまでも不透明さがつきまとうだろう」とフランスのジョスパン首相は言った。不透明な歴史に耐えるのが、私は人間の良心だと考えている。フランス文学は、不透明の人生を描いて傑出していた。世界中が幼児化しているように見える。 しかしやはり偉大なアメリカには賢い人もいる。米連邦最高裁のジョン・ポール・スティーブンズ判事はこう言ったという。 「今回の大統領選で誰が勝ったのか、永遠にわからないかもしれない。だが、敗者は火を見るより明らかだ。裁判官は中立な『法の番人』であるという国民の信頼が揺らいだのだ」 それはアメリカにとっては困ることなのだろう。もちろん日本の司法にとっても。しかし小説家の視点で言えば、おかげでアメリカ国民が、やっと少し大人に近づいた、ということだ。完全な中立などということはない、ということは、日本だけでなく、アメリカにおいてもそうである、とわかるのは遅すぎたというものだ。 この中には、いささか私と個人的に関係のあることもある。 ペルーのエル・ポプラル紙が日本に滞在しているフジモリ前大統領が、日本国籍をもっていたことについて、 「日本、『マフィア息子』をかくまう」 と書いている。フジモリ氏が一私人となった日から、家を提供している者として、私はエル・ポプラル紙に言いたい。 「彼がペルー産マフィアの息子なら、せめて運転手つきキャデラックの一台か、それが無理なら、パジャマの着替えを持たして送ってもらいたい」 日本には「清貧の思想」という強烈な美学があるが、エル・ポプラル紙なら、エル・ポプラル=民衆という名前からだけでも、少しはこの心情をわかってくれるかもしれない。
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