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「共通語はマレー語 バリ島のデンパサールから空路で一時間四十分、ジャカルタに飛ぶ。一九四五年の独立当時は、九十万人だったが、今日では九百万人もの居住者がひしめく首都である。人口流入で急速に膨張したこの街の概念をつかむには、市の中央地区にあるムルデカ(独立)広場の百三十七メートの塔の展望台に登るに限る。 ジャカルタ湾に面した北の地区は、今もオランダ植民地時代の名残をとどめている旧バタビアである。今は政府の高官や大金持ちの住む瀟落なオランダ屋敷がある。十五世紀、この地のヒンドゥー教王朝、パヤヤラン王国とポルトガルとの香料交易の中心だったスンダ・クラバ港がある。あの時代そのままのピニシ船と呼ばれる木造船が停泊、スマトラやカリマンタン島からの木材運搬に従事していた。港から目と鼻の先には、オランダが建設した年代もののコタ駅が、そして付近にはチャイナタウンがある。 一九九八年五月、反華僑暴動で焼き打ちに遭い、黒コゲのままシャッターを閉じた店が多い。インドネシア経済の回復は、日暮れて道遠しの感ありだ。塔の南はゆるやかな起伏で、独立後、建設された新しい郊外地区だ。空地のままの建設予定地が目につくが、公園と緑と、大使館や高級住宅のある新興地区だ。市街の中心部は六車線の道路もあるが、右折禁止と一方通行がやたらに多く、往きと帰りは、いつもルートが異なる。地理が覚えにくい。もともと産油国であり、ガソリンが安い。一リットルがルピア安も手伝って日本円でわずか十三円。そのせいか車が多く、排気ガスが充満している。 以上が、この巨大都市ジャカルタの第一印象であった。ジャカルタで最初に訪れた高い塔に話を戻そう。この塔の名は、Monumen Nasional(建国記念塔)という。この国の言葉はローマ字表記だから、とにかく読むことだけは可能である。国父スカルノ元大統領の一声で、一九六一年から十四年もかけて建設したイタリア直輸入の総大理石造りのタワーである。頂上には純金三十五キロで作られた飾りが光り輝いている。独裁者というものは、高い塔がなぜか大好きで、お隣のイスラム教国マレーシアにも世界一高い旗竿とか、トウィン・ビルが国父の命令で建設されている。フロイト流心理学者に言わせると、英雄的男性にありがちな「巨根信仰」の一つの表現でもあるとか。展望台まで三千百ルピー(四十円)。この国の庶民にとっては決して安くはないのだが、超人気の観光スポットで一時間も並ばないと入れない。インドネシアは人口二億一千万人の大国であることを考慮に入れると、このスカルノ商法、興行的にも十分引き合うのかもしれない。 それはともかく、私が気になったのは、この塔の名称であるMonumen Nasionalなる変てこな横文字であった。「モニュメン・ナショナル? これ何語だい。オランダ語でもなし、英語でもなし」私の問いに、定年後、この地に移住、日本語と英語併用の日刊「じゃかるた新聞」を発行している旧知の草野靖夫さん(元毎日新聞ジャカルタ支局長)が、「オッ、ホッ、ホ。正真正銘のインドネシア語ですよ。この国の人、器用だから、外来語でも便利だと思ったら、すぐ自己流の国語にしてしまう」と苦笑した。 「インドネシア語とは何ぞやを知りたいですか。共和国成立以前のインドネシアは、たくさんの王国から成っており、てんでに別の言葉をしゃべっていた。これでは統一国家はつくれない。ジャワにはれっきとしたジャワ語がある。でもひとつの言葉に敬語の表現が数通りもあり、優雅すぎて他の島の人には難しすぎる。そこで共通語として一番簡単な言葉を使うことにした。スマトラ東部の商人たちが使っていたマレー語を若干モデルチェンジして、公用語として採用した。だからインドネシア語なるものは、もともと人工的な言葉。先祖から受け継いだ地方語は三百もある。インドネシア国民の多くは、「バイリンガルです」というのだ。 草野さんは、ついでに面白い語呂合わせを披露してくれた。 「飯は無し、魚はいかん」 いわく??飯は無し(Nasi)、魚はいかん(Ikan)、菓子は食え(Kue)、人は居らん(Orang)、でも死ぬは待て(Mati)。日本の占領時代のインドネシア語早わかりの手引書の付録とのことで、読み人知らずの傑作である。かけ足のジャカルタ見物をした帰途、立ち寄った現地風レストランでの会食の話題である。 ついでに「妙める」と「焼く」を教えてもらった。旅は積極的にやってみるに限る。「Nasi Goreng. Ikan Bakar.」。早速、試してみた。待つことしばし。妙飯と焼魚が卓上に供されたのである。ちなみにGoreng(ゴレン)は妙める、Bakar(バカル)は焼くのインドネシア語である。 私は言葉に対してややマニアックなところがあるらしい。ただし、それはあくまで常人に言わせればの話だが……。実は今回のインドネシアヘの初旅行の機中、ある言葉が気になって仕方がなかった。それは「インドネシア共和国」なる国名であった。いったい誰が命名したのか、それを考え続けていたのである。この国を三百五十年も植民地支配していたオランダは、そんな呼称は使っていなかった。あくまで、ここはインドの東でしかなかった。ジャワはあくまでジャワでしかなかったはずだ。第二次大戦でオランダ軍を十日間で追い出したかつての日本軍は、「蘭領東インド占領」と報じていたはずだ。 「そう言われればそうですな」。昔の新聞記者仲間さすがの草野さんも、私のこの疑問には、辟易とした様子であった。 KanKun(野菜妙め)、MieGoreng(焼きそば)、Sate(串焼)etc。インドネシア料理はそこそこにウマイ。でもイスラム教国なので、酒類は手に入りにくい。フルーツ・ジュースやコカ・コーラで、ジャワ人たちは食事をする。やはり、ビールぐらいはあった方がいい。先刻からインドネシア産Bali(バリハイ・ビール)で、喉を潤していた同行の白石隆・京大教授が、助け舟を出した。 「インドネシアとは、インドにギリシャ語の島の複数形であるネシアをつけた合成語です。インドの島々という意味ですね」と。この高名な学者によると、十九世紀のドイツの地理学者が南太平洋のポリネシア、メラネシアという地理上の分類をしたのだそうだ。 元々、ジャワという地名は、五世紀、インド人がもってきたものだという。サンスクリット語で「ヤバ」、穀物という意味だったそうだ。十六世紀から、この島々を支配したオランダ政府は、「ジャワ」という島名は認知したものの、「インドネシア」という用語は使わなかった。東南アジア植民地化の尖兵である国策会社「東インド会社」の社名をとって、「東インド」と呼んでいたのである。 アジア初の共産党 インドネシア人が「インドネシア」と自称するようになったのは、一九二〇年代のことだ。白石さんの解説によると、一九二〇年、ジャワにアジア初の共産党が誕生した。これもオランダ人、といっても反政府オランダ人が移入したものだそうだ。この頃のインドネシアは、何でも“オランダ様”だったのだ。当初、「東インド共産党」だったが、数年後オランダ総督ににらまれた、くだんのオランダ人が、本国送還になったのを機に、「インドネシア共産党」と改名した。その後、一九二七年にはスカルノが民族の自覚を説き、「インドネシア国民党」を旗揚げした。 「蘭印」から、インドネシアヘ。以上がインドの東にあるこの島々の国名の由来である。当時のスカルノは、「一つの祖国インドネシア、一つの民族インドネシア、一つの言語インドネシア」を旗印に、独立運動を開始したのである。 旅行案内書(英国出版のLonely Planet=地球一人歩き)のインドネシア編をめくっていたら、「ここを見れば、お前はもうインドネシアのどこにも旅行する必要なし」という歌い文句の大テーマパークが、ジャカルタ南部の新興地区に存在するのを“発見”した。 Taman Mini Indonesia Indahなるもので、「インドネシアの全土が、ひとつの公園」にという意味だ。スハルト夫人のアイデアで建設されたもので、一九七五年の開園である。「スハルト夫妻は、この場所に居を構えていたが、土地を明け渡し、この大企画を始めた」とある。 百ヘクタールの広大な土地にLagoon(潟)がつくられ、この多島国家のミニチュアの島をあしらった。ボートで島々めぐりをやり「一つのインドネシア」を実感させる趣向だ。二十七の州の伝統家屋や、ミニ・ヒンドゥー教遺跡もあり豆電車で巡回する仕組みになっているというこの国策テーマパーク、訪れるにはジャカルタの日程が詰まりすぎている。でも、なぜ、この国の首都にこんな大ゲサなものが存在するのか。それはわざわざ出かけなくてもわかる。独立後五十五年インドネシア共和国は「一つの言語」はなんとか達成したものの、「一つの祖国」「一つの民族」の形成はまだ十分ではないからである。
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