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一九九七年十一月九日 文藝春秋の後援会のため、米子空港に向かう。会場は安来市。 同行は井上ひさしさん。新国立劇場のこけら落とし用に書かれた「紙屋町さくらホテル」は名作だと、見た人が何人も感動していた。 文春の講演会はどこもいっぱいで、聴衆の反応がまた伸びやかですばらしい。 十一月十日 朝早く、気の毒に眠い盛りの文春の武藤旬青年も叩き起こし、財団の秘書室長の星野妙子さんと一足先に、島根県吉田村の「ケアポートよしだ」という高齢者総合福祉施設を訪ねる。ここは財団が、平成四年から総額で約九億円を建設や運営費として出している。 温泉プールはリゾート・ホテル並み。昔は決して水着など着なかっだ高齢者も、花模様のスイム・スーツを着て、水中歩行を楽しむようになるし、エアロビクスの講習会も開かれていた。夫婦棟は、旅館の離れのように炬燵とベッドの組み合わせである。棟から棟への渡り廊下はサンルーム風に明るくて温かくて、冬の間、私のような園芸愛好家にとっては、鉢植えを置くのに、垂涎の場所である。 殊に参考になったのは、お風呂の傍に、同じ高さの木の縁台みたいなものが必ず置いてあることだ。そこにまず寝かせるなり座らせるなりして、それからおもむろに足の向きを換えて、湯船に入れれば、介護の苦労もかなり減る。 この介護用具を作っているのが、八十九歳の大工さん。今でも現役でバイクに乗って通って来る。これからは老人も働く時代だ。働くのは楽しいし、もし日本がうまく生き延びるとすれば、それは経験豊かな老人たちが、それぞれの健康の度合いに応じて働く体制を作った場合だ。 ここには精巧な藁細工でしめ縄や茣蓙を編む伝統的な技術も残っていて、村の人たちもいっしょに施設の一室を作業場に当てている。日当たりのいい広々としたアトリエだ。早速今度のお正月用の玄関のお飾りを注文して送ってもらうことにする。 出雲の駅から、井上さんたちと同じ列車に合流し、夜は山口市で講演。 夕食の時、井上ひさし少年が、どんなにカトリック教会に「入りびたり」、ミサの侍祭を勤め、ラテン語の歌ミサを懐かしがり、時々はちょっと悪いことをしたかという話に笑う。ちょっとも悪いことをしたことのない人なんて、てんでおもしろくない。「上等のちょっと悪いこと」を私はいつもしたくてたまらないのだが、それには一朝一夕ではできない人間の厚みが要るのでむずかしい。 十一月十一日 朝六時半、出発。九時半羽田着。そのまま財団へ出勤。いろいろと各部からの報告。 急いで帰って、原稿。 とにかく書かなければ明後日発てないのだから「もうこれで浮世の義理はすべて欠きます」と秘書に言う。 しかし財団に勤めてから、私は書くのが実に早くなった。倍近くの早さになったような気もする。どこででもすぐ書ける。今の私は生活が濃厚だから、書くことがゴミのように溜まって膨れ上がる。速度と小説の出来不出来は、全く無関係。ワープロだと作品がだめになる、と言い張る人もいるが、何で書いても小説の完成度とは関係ないように、速度と作品の内容も関係ない。井上さんもワープロ作家だと言われる。 今度のアフリカ旅行は、官官接待、官民接待をおじ恐れる時代の風潮に、反抗的に私が企画したものである。行き先はマダガスカルとルワンダ。途中で南アとケニアは通過しなければ行けない。 参加者は全国紙、通信社が各一名。民放のテレビ、ラジオ局がそれぞれ一人。それに中央官庁の、厚生、運輸各省の若手が一名ずつ。中途からもう一社、全国紙の南ア特派員が合流するという。 訪問先でコーヒーは飲んではいけないが、渋茶なら饗応にならない、などといういじけた発想に私は真っ向から抵抗したのだ。人から疑いを持って見られさえしなければいいのか。自分さえ堕落していなければ、無責任な人の疑いなど、勇気を持ってはねのけるだけの勇気がいる。 日本財団は将来日本の行政とマスコミを率いる人たちに、世界のどん底の貧しさを知っていてほしいから私はこの企画をした。それら貧困の実態は、新聞社の取材ルートでも多分見ることは不可能だ。私が結果的に長い間培って来た人脈がないと入れない世界だからお連れするのである。 饗応とは、今の生活より贅沢をさせることだろう。しかし私は、参加者の日常より悪い暮らしをするように企画しているのだから、饗応にならない。 飛行機はすべてエコノミー・クラス。首都から数百キロ離れた電気も水もない村の修道院にも泊まる。皆、寝袋持参。お湯の出る風呂やシャワーなど、数日存在を忘れて頂く他はない。マラリアと細菌性の下痢の恐れは確実にある。悪路と埃と食べ物の不味さと自動車事故と泥棒とノミやダニなどと、それらにどう対処して生きるかは、一種のサバイバルの技術に属するが、それを若い世代に教えたいのである。今日から同行者の安全のための祈りを始めた。
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