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今年で十三回目になった障害者の方たちとの「聖地巡礼」の旅の直前から、ハマスに属するテロリストの自爆テロがイスラエルの各地で起こったので、旅行を取り止める人が続出するかと思ったが、案に相違して、今年は当日になって止めた人さえいない。危険はないわけではないが、騒擾とか災害とかいうものは、局地的で運による、ということがよく理解されていたらしい。イタリアを廻ってイスラエルに入ると、別に兵隊さんだらけ、ということもないし、早速土地の知人から、イツハク・ラピン首相暗殺犯の結末を聞いた。 犯人は終身刑に処せられたが、当人は今でも神の命令を実行したまでで、少しも悪いことはしていないと言う。しかし家族は陳謝の意を表明した。 「恩赦ということもある終身刑ですか?」 と聞くと、可能性としてはあり得るのだが、裁判長は、今までにも将来にも、こういう犯人に対して恩赦を与えるような首相はありえないだろう、という意味のことを言ったと言う。 この事件はさまざまな憶測を生んでいる。実は事件は極右勢力を一掃するために仕組んだものだったという噂さえ出ているらしい。つまり、推理小説もどきの筋では、極右を一網打尽にするために、当局がわざと偽弾をこめたピストルを人を介して犯人に渡した。筋書き通りに行けば、彼はそれでラピンを撃ち、当局も首相は撃たれたが怪我は大したことはなかったということにして、それをきっかけに一挙に極右を抑える予定だったというのである。ところが犯人は、それが偽弾だということを見抜き、ほんものの弾をこめ直した。 当日、テレビに「偽弾だ!」という護衛官の声が入っていたのがその根拠だという。首相の近くから発射音がした時、計画を知っていた護衛官が、それは予定の行動だったと周囲に知らせようとした。その声がテレビの音声に残ってしまったのだという。その声の主も特定されたが、この人が変死体となって発見されたから、話には尾鰭がついたのだろう。 さらに疑惑を生むのは、もう一人の警護責任者も首吊り自殺をした、と言うことであった。 「自殺ですって?」 私がおかしく思ったのは、宗教上の理由から、この国では自殺が極めて稀だからである。当然世間も責任者が自殺したということに疑問を感じ、それは自殺を装った口封じの他殺だろう、と思いたくなったのだろう。 裁判でも、肝心の事件の経過の部分はほとんど公表されなかった、と知人は言う。今、日本では情報公開を巡って動きがあるが、イスラエルでは国益のために公開しない部分もある。 自爆テロリストの報復に、イスラエルは彼らを送った南レバノンのヒズポラの基地と思われる地点を、湾岸戦争の時と同じようにピンポイント攻撃している。するとそれに対してヒズポラの秘密基地からは、カチューシャ・ロケットがイスラエル側に撃ち込まれている。イスラエル側の新聞の発表だから、自分に有利な書き方をする面もあろうが、ヒズボラ側はロケットの発射基地として小学校を使っているのが確認された、という。そうなればイスラエル側は当然小学校の建物も攻撃の対象にするということである。イスラエルがレバノンの小学校まで無差別爆撃をした、と世界に知らせることができれば、大成功なのである。 そんな背景もあって、私たちが滞在していたガリラヤ湖畔のホテルからは、よく出撃する戦闘機の飛行機雲が見えた。イスラエルは一切の戦力(戦闘機の数など)も公表していないという。裁判は公表されるのが当然だが、戦力はそう簡単には言えない。公表することが戦争の抑止につながる場合も大いにあるし、公表しないことが抑止力を持つ場合も同じようにあるからである。 人間の体や生活だって、世間にお見せして当然の部分と、隠すのが人情という部分があるだろう。情報も公開して当然の部分と、秘密にしなければならない部分とがあるのが自然だ。それをごちゃまぜにして論議する日本の世論というものが、実は私にはよくわからないのである。 もちろん多くの公的機関は、情報公開をすべきである。私が働いている日本財団でも、財務諸表の公開は、新聞でもするし、マスコミ関係者などにも、年に四度の「お知らせ」を送る度に、しつこいくらい繰り返してつける方針を取っている。大きな声では言えないが、これだから日本のゴミが増えるのだし、私自身が送られる立場だったらすぐゴミ屑籠に棄ててしまうのではないか、と内心思っているが、それでも人さまのお金をお預かりする立場では、この公開こそが命だと思うから仕方がない。しかし個人に関する一切の記録、組織に関する調査、国家に関する防衛などにまで一切秘密の部分を持ってはいけない、というのはおかしなことだ。 数年前のイスラエルで、小学生の一団を連れた髭面の男が、ユダヤ教徒の誇りを示すキッパという丸い帽子を頭につけ、自動小銃を脇に抱えていたので、私はわざわざ「あなたはどなたですか。なぜ武器を持っているのですか」と質問しに行ったことがあった。すると彼は、自分は担任の教師だが、子供たちを連れて校外へ出る時には、必ず自衛のための武器の携行を義務づけられている、と教えてくれた。その状況は今でも同じだという。そういう教師に教えられた子供は、社会は危険に満ちているということを身に染みて自覚し、しかも、自分たちを守ってくれる先生に対して、もっと尊敬も愛も感じるだろう。先生が武器を持つ状況は決していいとはいえないが、悪いことの中にも必ずいくらかの意味のある要素もある。この世のことは一筋縄ではいかないから、単純に正義を振り回すと、真実が見えなくなる。 四月十四日の夜から、私たちの泊まっているホテルのロピーの一隅に、小さな祭壇のようなものが設えられ、そこに缶入りの蝋燭が六個燃えるようになった。白いカラーの花も六つ、他の花は切り取られた跡がはっきりと茎に残っていた。「虐殺の英雄と殉教者の記念日」が始まったのである。六個の蝋燭は、ナチスによって殺された六百万人のユダヤ人の魂を表すものである。祭壇は荒い網と荒布と黒布とでデザインされていた。恐らく、荒い網は彼らを決して愛する人たちの元へ返さなかった強制収容所の無残な囲いを、荒布は最後の日々の苛酷な生活を、黒布は死んで行った人たちへの悼みを表しているのだろう。その夜、ホテルのバーは開かれなかった。 翌日私たちはパスで移動中だったが、十時近くなると、運転手がラジオをつけた。十時きっかりにサイレンが鳴ると、あたりに走行中の軍は一斉に道端に止まった。人たちは車を下り、二分間の黙祷が捧げられた、私たちもバスの中で起立した。 日本でこんなことをしたら、死者への礼儀を守らない若者もたくさんいるだろうし、またそれを守らせようとする社会的なコンセンサスもないだろう。どちらがいいか、私は結論は出さない。しかしいずれにせよ、世界の国々は、とにかく日本と違うのである。 今年初めて、私たちは、障害者といっしょにベドウィン(遊牧民)のテントに宿営した。ただでさえ体の不自由な人たちが、そんなところでどんなに大変かと思ったが、皆、それを最大の体験として楽しんだのである。もっとも、男も女も体の効く者が、交代に焚き火の傍で不寝番をしてトイレに起きる人の介護をした。野獣こそ出なかったが、交代で夜番をするなどということは、どんなにすばらしい体験か。その上、私たちは幸運にも、珍しいハムシーン(砂嵐)さえ体験したのである。 黒山羊の毛で織った数千年前と同じ構造のテントの中では、人も物もたちまち砂でまぶされた。私たち七十余人は、男も女もいっしょにその夜一つテントの下で、寝袋にくるまって眠ったのだが、私たちの寝床になった敷物の上にも、我々が着ているヤッケの上にも、あっという間に砂が積もって色もわからなくなった。 その天幕の一夜、私たちは文字通り口の中で砂を噛んだ。世界はたちまちコンタクト・レンズやコンピューターの使える場所ではなくなったのである。そんな精巧な構造のものは、あっという間に砂を噛んで使えなくなるのが砂漠である。実に中近東・アフリカで、庶民的な暮らしをするということは、動物並みに土や砂に塗れて暮らすことであり、それに対して私たちはどれだけ馴れることができるか、ということなのである。 その中で、唯一人間の尊厳を示すのは、人間だけが敷物の上に坐る特権を持つということである。家畜は同じテントの中でも、決して敷物の上に上がることはない。だから砂漠の民にとって、敷物や絨毯は人間の証である。 私は、私とよく似た趣味を持つ或る日本人のことを思い出していた。 暑い産油国で暮らすことになった時、この人は(私と同じ好みで)わざと床に絨毯を敷かなかった。暑いし、虫が湧くし、臭いし、洗濯はままならないし、はだしで大理石の床の上を歩く方がはるかに合理的で清潔で涼しく思えたのである。 そういう構造の家に、或る日彼は、親しくなったペドウィンの友人を招いた、するとこの友人は急に怒りだしたのである。彼は敷物のない部屋に通されたことで、動物並みの扱いを受けたと感じたのであった。 歯も磨かず、顔も洗わず、着替えもしないというのが、こういう土地での礼儀であり、暮らし方である。それでも今度の同行者たちは、この旅行の中で、その夜が最高によく眠れたと言った。一説では「やはりベッドは馴染まんのでしょうな。フトンがいいんですよ、日本人は」ということでもあるが、私は砂嵐が止んだ後の静かさのせいだったろう、と思っている。都会の放送局のスタジオの中にも静寂はあるが、それは「死んだ無音」であり、砂漠には地球の自転の音も聞こえそうな「生きた沈黙」があったからなのである。 (一九九六・四・二十六)
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