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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 中学三年生?からくり、わからぬなら…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 69  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1997/07/29  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   最近、神戸の殺人事件の被疑者が十四歳だったことから、急に中学三年生が花形のように取り上げられるようになった。
 テレビでも特集をやっていたので見ていると、昔と大して変わらないことを言っている。親から気に入らないようなことを言われたり、教師がえこひいきをしたりすると、親や教師を「ブッ殺したい」と思うのだそうだ。
 そんな思いは、最近の特徴ではない。マスコミが驚いたり、異常だと言って取り上げてやる必要など全くないのである。昔から生活とはそんなものだった。少なくとも、私は家庭内暴力の中で育ったから(私が暴力を振るったのではない。親の方が振るったのである)瞬間的な殺意も体験したが、長い目で見れば誰かを殺すどころか、如何なる人の不幸も積極的に願ったことはない。
 いっしょに暮らせないと思う人とは、別れて生きることを願ったが、それでもその人が幸福に生涯を送ってくれるほうがよかった。
 私は幸運なことに、親から、人間は正しく理解されることなどほとんどない、と教わった。私自身、私よりもっと幸福な人もいるだろうけれど、もっと不幸な人もいるだろう、と当たり前のことを考えていた。もっと不幸な人と比べると私の幸福は感謝しなければならないし、もっと幸福な人とくらべると私の方が人生を知っている、と思うことにした。それで私は小説家になったのである。不幸は私にとって、小説家になるための必要最低限の資格であった。
 テレビに映る十四歳の中には、勇気のない子が目立った。他人と同じでないと不安なので、反対でも調子よく妥協しておいたり、さして好きでない友達でも失うのを極度に恐れたり、自分の私生活の部分はあまり見せないようにしている、などと言っている。
 昨日この欄でも書いたことだが、人は一人一人根本的に違うのだ。そうでないなら、別にクローン人間の製造を恐れることはない。
 私はほとんどの友人と何十年も付き合ってもらっているが、それは私が正しい人だからでもなく、気前がいいからでもない。身勝手でも、ケチでも、せっかちでも、神経が荒っぽくても、家庭が歪んでいても、あの人はまああんなものよ、ということでおもしろがって付き合ってもらったのである。人はお互いのやることを、むしろ笑い物にしながら、友情を保つ。ただその人の中に一点秀でているところがあれば、そしてそれを見つける眼力がお互いにあれば、友情は続くのである。
 秀でているところ、などというと、また世間はすぐ常識的なプラスの意味でしか考えない。しかし世間は複雑で、秀才でなく凡庸、協調でなく非協調、勤勉でなくずぼら、裕福でなく貧困、時には健康でなく病気、すら、その人を創り上げる力を持つ。
 そういうからくりを十四歳にもなってわからないような友達には、見捨てられた方がましだと思えばいいのだ。
 



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