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最近、神戸の殺人事件の被疑者が十四歳だったことから、急に中学三年生が花形のように取り上げられるようになった。 テレビでも特集をやっていたので見ていると、昔と大して変わらないことを言っている。親から気に入らないようなことを言われたり、教師がえこひいきをしたりすると、親や教師を「ブッ殺したい」と思うのだそうだ。 そんな思いは、最近の特徴ではない。マスコミが驚いたり、異常だと言って取り上げてやる必要など全くないのである。昔から生活とはそんなものだった。少なくとも、私は家庭内暴力の中で育ったから(私が暴力を振るったのではない。親の方が振るったのである)瞬間的な殺意も体験したが、長い目で見れば誰かを殺すどころか、如何なる人の不幸も積極的に願ったことはない。 いっしょに暮らせないと思う人とは、別れて生きることを願ったが、それでもその人が幸福に生涯を送ってくれるほうがよかった。 私は幸運なことに、親から、人間は正しく理解されることなどほとんどない、と教わった。私自身、私よりもっと幸福な人もいるだろうけれど、もっと不幸な人もいるだろう、と当たり前のことを考えていた。もっと不幸な人と比べると私の幸福は感謝しなければならないし、もっと幸福な人とくらべると私の方が人生を知っている、と思うことにした。それで私は小説家になったのである。不幸は私にとって、小説家になるための必要最低限の資格であった。 テレビに映る十四歳の中には、勇気のない子が目立った。他人と同じでないと不安なので、反対でも調子よく妥協しておいたり、さして好きでない友達でも失うのを極度に恐れたり、自分の私生活の部分はあまり見せないようにしている、などと言っている。 昨日この欄でも書いたことだが、人は一人一人根本的に違うのだ。そうでないなら、別にクローン人間の製造を恐れることはない。 私はほとんどの友人と何十年も付き合ってもらっているが、それは私が正しい人だからでもなく、気前がいいからでもない。身勝手でも、ケチでも、せっかちでも、神経が荒っぽくても、家庭が歪んでいても、あの人はまああんなものよ、ということでおもしろがって付き合ってもらったのである。人はお互いのやることを、むしろ笑い物にしながら、友情を保つ。ただその人の中に一点秀でているところがあれば、そしてそれを見つける眼力がお互いにあれば、友情は続くのである。 秀でているところ、などというと、また世間はすぐ常識的なプラスの意味でしか考えない。しかし世間は複雑で、秀才でなく凡庸、協調でなく非協調、勤勉でなくずぼら、裕福でなく貧困、時には健康でなく病気、すら、その人を創り上げる力を持つ。 そういうからくりを十四歳にもなってわからないような友達には、見捨てられた方がましだと思えばいいのだ。
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