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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: アフリカ再訪(上)  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い   
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1999/12/01  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   霞が関の中央官庁(運輸、建設、厚生、農林水産、文部)の各省の若手五人、希望するマスコミ関係者五人、それと日本財団の若い職員に、アフリカのもっとも貧しい部分の現実を見せる旅は、今年で三回目になった。
「マラリアを初めとして、下痢、肝炎、狂犬病などの病気もいくらでもあります。政情も不安定です。それらの危険を一切回避するという保証は日本財団にはできません。できるだけの安全は考えますが、人間の能力では不可抗力のものがあります。その危険を納得されるようでしたら、おいでください」と言って同行するのだが、それだけにいつも一番私が感動するのは、帰路、飛行機の車輪が成田の飛行場のランウェイに接地した瞬間である。若い人たちの命を預かって行って、無事に日本に返して頂きましてありがとうございました、と私は改まって神にお礼を言うのである。
 人生とは矛盾したものだ。誰も安全と健康と日常性の継続を願わない者はない。しかしそれだけではまた魂が生きない。だから中にはこうしたアフリカの粗削りの生の実態を、危険を承知で見たがる人々もいる。
 去年もコンゴ民主共和国(旧ザイール)に入る日程を立てていたのだが、寸前になって政変が起きた。日本大使館は退去し、そこにいた数人の日本人シスターだけが残った。大使夫人は何度も親切に、いっしょに行きましょうと誘ってくださった、とシスターたちは今でも深く感謝している。日本国政府が危険を避けるために退去を命じたのも理解できるが、シスターたちは、この世の制度や力よりも、神に従うことを誓った。だから彼女たちはこの世の為政者の命令より、この国で働くという神の命令に従ったのである。たとえいかなることが起こっても、彼女たちはそれを納得しただろう。
 その時私は一人なら、予定通りこの国に入ったろう、と思う。スイスからはたまに飛行機が飛んでいたというし、闇で食料を買ったり、飛行場に辿り着いてとにかくヨーロッパまで脱出する飛行機の一席を見つければいいのだ。そんな時、私はワイロを使って席を見つけることを、さして悪いことだとは思わない。しかし十七人分の食料と飛行機の座席を確保することは、動乱の中では容易ではないから、コンゴ入りの計画はキャンセルされたのである。
 その上キルギスで誘拐され、六十三日ぶりに釈放されたジャイカ(JICA)関係者の例を見てもわかるように、今や日本人であるというだけで誘拐の対象になる。キルギスの四人に対して身代金を払わずに、人道的配慮だけで帰してもらった、などという政府の発表を信じる者は、外国の実情を少し知る人にはいないだろう。ゲリラに直接払ったかどうかは別として、仲介者にはうんと支払う結果になったろう。今や誘拐は、貧しい国々では、実は国家単位、政府単位で可能になった新商売である。今回も日本政府はその事実を隠すことで、世界に通用しない甘い考えを持つ日本人を作った。その責任は負わねばならない。誘拐の結果人質が釈放される例が増えれば増えるほど、世界の誘拐業は、もっとも有効な金儲けの対象として、日本人、日本の航空機、日本の船舶を狙うようになる。動乱の国に入る場合には、その方面の要心も必要になって来るのである。
 コンゴは私にとって初めての国だった。そしてそこには私と昔から深い関係にある二人の日本人シスターたちがいた。彼女たちは「マリアの宣教者フランシスコ修道会」に属しており、シスター・中村寛子は以前アンゴラにいてゲリラに捕まり、ジャングルの中を一月間歩かされた。その間、彼女の生死は不明だったのである。しかし再びアンゴラには入らない、という誓約書を書かされて国外へ出た彼女は、少しも懲りずにアンゴラの隣のコンゴに入ることにした。その時から私が働いている海外邦人宣教者活動援助後援会(通称JOMAS)はシスターのコンゴでの活動を助けることになった。当時私たちが贈った二台の身体障害児の通学用のバスは「コンゴ一のおしゃれなバス」だということになっており、それに乗りたさに、子供たちは学校に通うようになったという。このシスター中村は、昔山口県モーターボート競走会に勤めており、そこを辞める時の退職金でシスターになるための用意をした。
 もう一人の知人はシスター・高木裕子だった。私の同級生でやはりシスターになった高木基美子の姪であった。この高木一族は、娘たち六人がすべてシスターになった。そして男の兄弟に生まれた姪のうちの数人もまた、こうしてシスターになっているのである。
 首都キンシャサに着くと、その夜の宿泊はインターコンティネンタル・ホテルだと聞いて、私は少し苦い思いをした。アフリカ行きは官民共学の旅ではあっても、官民接待の意思は全くないのだから、添乗員もつけていない。荷物運びも炊事もすべて皆でやるし、お客扱いは一切しないという建前なのである。しかしアフリカまでは、日本から二日がかりで着くのだ。最初の一日くらいは少し賛沢なホテルでゆっくり休ませねば病人が出る、と私は納得することにした。
 しかしシスターの話によると、私たちが宿泊することになっている世界的なレベルの「インタコ」ホテルも近々閉鎖になるという噂があると言う。誰も観光に来ないし、ホテルをほとんど「傭兵」に貸してしまったので収益が上がらないのだと言う。
「傭兵」とはまた古い言葉だ。一体どういう人たちがいるのだろう、と思ってホテルに着くと、溢れていたのは国連軍の連絡将校たちであった。シスターたちは日本の新聞を読んでいない。だから日本ではPKO部隊などという呼び方をしていることも知らないのである。そして確かに国連軍は現代の傭兵であった。
 この国は歴史的には十四世紀に王国が出来たのだが、そこにやって来たのはブラジルのために必要な奴隷を補給する目的で渡来したポルトガル人だった。ポルトガルのような国は、どういう形でこの国に「謝罪」したのだろうと、私は思った。しかしその後ベルギーが領有したために、この国の言語は地方地方の部族の言葉を除いては、公用語はフランス語である。
 翌日、広大な中央市場のような所を見た時には、私はまだ少し明るい気分だった。ものは一応なんでもある。肉も魚もあるし、野菜も果物も豊富だ。ただ誰がどれだけ買えるのかは、よくわからない。そしてここでも空きビンを売っていた。私たちが「燃えないゴミ」として出す一切のビン類(ビール、薬、洗剤の容器まで)すべてが売り物になりえているのであった。
 しかし私が次第に滅入るような気分になって来たのは、セレンバオのサナトリウムと呼ばれる国立病院を見た時であった。
 昔はここは、町外れで文字通り結核の療養所だったという。確かに外観も建設当時はモダンなものだったろうということが推定される。しかし今は「廃墟病院」というほうが正しかった。中へ入ると、それは隅から隅まで荒れ果てていた。洗濯室の一部の機械は錆び、アイロン台の布は腐ったような色に変質してもはや使えないという。古いドイツの洗濯機はいまだにどうやら動いてはいるが、とても入院患者のすべての需要は満たせない程度の能力しかなかった。
 死体置場なるものは、タイルがあちこち剥がれた開けっ放しの室であった。誰かが「臭気がひどいから、入らない方がいいですよ」と私を脅かす。遺体はもはや治療を要しないからどうでもいいが、入院室の方は壁も天井も修理をしたことがなく、ドアも動かなくなっているような部屋だった。
 そこに何人かのエイズ患者もいた。末期のエイズ患者が他の病人と隔離されているわけでもなく、実のところ完全にエイズだという検査結果が出ているわけでもないらしい。それというのも、日本円で数千円かかる検査をするだけの費用を出せる患者はいないし、第一検査は治療に繋がらないのである。更にエイズがそれほどの悲劇と思われないのは、エイズにかからなくてもどっちみち五十歳か、時にはそれ以下で死ぬので、病気はなんであっても死ぬなら同じ、というわけだ。
 大人でも子供でも、末期のエイズ患者の特徴は、骸骨の上にやっと皮が被っているというような表情になることだった。というより顔の下にその人の骸骨が見えるほどに痩せるのである。
 臨終の呼吸になっている人もいた。時々胸がふいごのように鳴る。老婆がついていて顔中を歪めているが、病院は匙を投げているように見える。この病院だけが冷酷なのではない。ここには何もないのだ。レントゲンの機械も壊れたままだし、薬もなく、使い捨ての注射器さえない。
 私が殊に驚いたのは血液検査の部屋に顕微鏡が文字通り一台しかないことだった。検査室も天井板のあちこちが破れたままで雨が漏るのを防げないので、顕微鏡を持って雨漏りを避けて逃げ回っているのだという。だからタイルの台の上は散らかったままだ。
 手術室には、喧嘩の結果、刃物で刺されたという患者が手術台の上にいたが、見学の私たちとの間にはしきりのドアさえなかった。ここも同じであった。床のタイルは割れてなくなり、壁は染みだらけ。わずかに破れずに残っているガラスはいつ磨いたのか、掃除した痕跡すらない。
 私たちは病院の医師たちから、援助を要請された。何もない。ものも金もないのだから、何をしてもらってもありがたいだろう。しかしここまで来ると私たちには数十本の使い捨ての注射器を手渡す以外のことはできなかった。医師たちはもう数カ月も給料を払われていない、という。仮に私たちが手持ちの金を十万円、或いは百万円渡したとしても、それは到底患者には届かない。金は医師たちで分配されてしまうだろう。そして私たちはそれを咎めることもできないのだ。
 その翌々日、私たちの車は突然、市内のバスの車庫のようなところに乗り入れられた。入口に大きな鉄扉があってその奥は全く見えなかったのだから、突然そこに数百人の子供と女性が現れた時、やっとこれが予定に組まれていた戦争未亡人の収容施設なのだな、とわかった。ここには二百人足らずの戦争未亡人と五百人を越すその子供たちが、部屋のしきりも何もないがらんとした車庫の中で、雨露を凌ぐ生活をしているのである。車庫そのものが、動乱の時、略奪に遇って廃墟になったところだった。
 内戦とは言え、政府軍側の兵士として戦争で死亡した人の家族には、当然政府が補償や遺族年金を支給するものだ、というのが日本人の考え方である。しかしそんな「常識」はここでは通らない。夫が死亡した時、彼女らはそれまで住んでいた「文化的な」アパートからすぐ追い出された。そしてこのコンクリートの剥き出しの床しかない車庫で暮らすことになった。彼女たちは、完全に「棄民」されたのである。
 月に一度、大豆一キロ、トウモロコシ十キロ、油四リットルは配給される。しかしそれだけだ。野菜を近所の畑に作りに行く人もいる。未亡人なのに、赤ん坊も生まれている。すると男からの援助のある女性もいることはいるのだろう。生活はたくましく流動的だ。
 しかし彼女たちはボロやシーツをぶら下げてわずかにプライバシーを保った二、三畳の空間で暮らす。マットレス、敷物、バケツや掃除用具、炊事用具、何のためにおいてあるのかわからない壊れた家具など以外、家財などほとんどない。
 故郷に行けば、親類もいるし、何とか耕す土地もある。帰りたいが、航空運賃が一人三万円かかる。
「バスで行ったらどうなんです?」
 と私は尋ねた。バスなら数百円で行けそうだと思ったのだ。
「曾野さん、道がないのよ」
 とシスターが教えてくれる。仮に四輪駆動車があったとしても辿り着けない土地なのだ、という。道のない村に住む人たち、というのは、そもそも歩いて行ける範囲しか移動したことがなかった、ということだ。
 この施設はシスターたちが面倒を見ている。だから私たちは入って来られた。しかしこんな場所はまともに申請を出したら政府は全く見せたがらない。ほぼ取材などできない所だと、新聞社、通信社の人たちは喜んでくれる。私たちがいる間にも通報を受けた役人が来て、いろいろと文句をつけだしたが、私が言葉のできないのを幸い、にっこり笑って握手をして時間を稼いだ。
 来る時には夢中だったキンシャサ空港に別れを告げる日が来た。シスター・高木はマラリアが起きていて、床に着いていた。シスター・中村が送ってくれ、他のシスターの甥だという人が空港の顔利きで、私たちは特別扱いをしてもらっているはずだった。それでも、空港中に溢れている役人たちには、規則もシステムも組織もなかった。私たちは何度も理由なく止められ待たされ、バスポートを集められ、また返されまた取られ、右往左往し、後戻りを命じられ、外貨を持っていないか、と聞かれた。外貨を持つのは違法だというルールがあると聞いていたが、他の外国もついでに旅行する旅人が、外貨を持たずにこの国にいるわけはなかった。すべては非常識だったが、それを正す判断はこの国にはなかった。私は金を持っているかと聞かれた時、わざと何語もわからないふりをした。すると質問はそのままうやむやにされた。
 私は四年前の骨折以来、時々ストを起こす足を引きずって空港内を用心して歩いていた。ここでも床のタイルは剥がれ、壁板は取れたまま、天井板も落ちた部分がそのままだった。電気の器具はぶら下がり電球のないソケットもいくらでもあった。階段の端はコンクリートが欠けたままになっているので、私はまた落ちて怪我をしそうな恐れを抱いていたのである。これがこの国の玄関の顔、国際空港の実態であった。
 この国は溶けかかっている、と私は感じた。これが一応の独立国の形態を取った国家の現在の姿だった。
 私はシスターに小声で言った。
「数カ月後には、また何か起きるような気がするわ。そうしたらどこでもいいから、一番近い外国まで逃げてくださいね。そこまで必ず緊急にお金を送って、日本にお帰りになれるようにしますから」
「ありがとうございます」
 シスターはそんな現実の到来を、全く信じていないような顔だった。
(九九・十一・八)
 



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