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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 当人の自由?「死への訓練」できていない  
コラム名: 自分の顔相手の顔 62  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1997/07/01  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   臓器移植法が成立したのは、ほんとうにいいことであった。今国会のスピード審議だの、こういう重大なことを性急に決め過ぎるだのという意見が出る度に、私は何を言っているのかとハラが立つ。私たちが二年間もかけて討議した脳死臨調で結論を出したのは、もう五年も前のこと、シンガポールの新聞は「日本人が三十年かけて討議した」と書いている。
 脳死を人の死として、臓器移植を希望する人に提供するかどうか。結婚したら姓を夫の姓に換えるかどうか。それらのことはできるだけ個別に当人の哲学を叶えるべきである。アメリカでは、入院時に、どの神父か牧師の訪問を希望するということを申し込み書に書かせるのが普通なのだそうだから、日本でもすべての病院でこういう項目を登録させる欄を作ればいいのである。自分で「脳死を人の死と認めて臓器を提供します」でもいいし、「脳死を人の死と認めて臓器を提供することは拒否します」のどちらでもいい、自分の意志を示した項目にサインさせる。「死後のことは誰々に任せます」でもいい。ただしこの場合は、残された妻や子が、本家、親族の圧迫を受けて大変な目に遇うだろう。法的に書類を整備しておくべきだが、弁護士会の意見、だとか、宗教界の統一見解、とかでくくるのは思想の自由に反する。
 こういう意志伝達の書類に書き込みをさせられるだけで、日本人の中には自分は死病なのではないか、と思う人がいるのだろうから、書き込みそのものをさせることがよくない、という論議が出て来る。死についての訓練がまるっきりできていない証拠だ。
 私はキリスト教徒だから、人生の最後には必ず死があることだけは幼稚園の時から毎日繰り返して教えられていた。だから死を思うことは、人間としてご飯を食べるのと同じくらい自然なことだと考える癖がついた。病院で死を想定するのは当然のことだ。こういうことも要は馴れである。
 結婚した後の姓の問題も当人が選ぶべきだ。私はスペイン語学習の第一日目に、正式な名乗り方(アペリイド)を教えられた。私の名前はチズコ・マチダ・ヤマト・デ・ミウラになるという。チズコは私の本名、マチダは父の姓、ヤマトは母の姓。私は、両親の折り目正しい結婚によって生まれ、三浦半島出身の男と結婚しました、というニュアンスを天下に誇示する感じで少し違和感があった。
 私は父に小説を書いていることを知られないために曽野綾子というペンネームを使い、そのままこの名前で仕事をすることになった。
 近所に住む知人の家に来た交番のお巡りさんが「三浦朱門と曽野綾子って、あれは内縁関係かね」と聞いたので、彼女は「そんなステキな間柄じゃないわよ。つまらない夫婦よ」と答えた。仕事の世界に個人の結婚など持ち込まない方が簡単でいいという考えはあるが、一方で「結婚したら、絶対に姓は換えるわよ。捕まえたのよ! ヤッホー!だもの。言いふらさなきゃ」という人もいるのだ。
 



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