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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 食堂街の友  
コラム名: 私日記 第6回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/06  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  三月二十一日
 昨日せっかくスポイトを買ったりして、授乳に一生懸命になったのに、私の週末の家の押入れの天袋で生まれた四匹のタヌキの赤ちゃんは朝までに死んでいた。夜半近くに、母親が探しに来た音がしたので、私は保温のために新聞紙をたっぷり入れた木箱の中に赤ちゃんを入れて、母親がいつでもくわえて行けるように戸外に置き、その上三度にわたって赤ちゃんを少しキイキイ啼かせた。親ならその独特の金属的な声をかなり遠くからでも聞き分けるはずだと思うが、どうして子供を取りに来なかったのか不思議である。
 赤ちゃんたちを抱いて寝るべきだったかと慙愧の念を覚えたが、私は自由に母親が来られるところにおいて、返してやりたかったのである。今日は日本財団で、昼食をはさんで、評議員会と理事会があった。再び三戸浜へ戻る。プロテアの赤い花はまだ蕾だが、めっきり大きく膨らんだ。
 
三月二十四日
 東京へ帰る。東京の家でほっとするのは、資料が何でもあること。三戸浜へ行く時は、十キロも二十キロも参考書類を運ぶので疲れてしまう。
 四月二十二日から外国出張が始まるので、来月分の連載まで早めに書いておかねばならないと思って焦っている。
 
三月二十七日
 午後二時から、総理官邸で教育改革国民会議の第一回会合。二十六人の委員が一人三分ずつ、目下考えていることの概略を話す。
 教育には精神面の基盤と、実際の現場ですぐ行なえる計画と、どちらもが必要なので、その二点について話した。
 今は全くとりあげられなくなった言葉「真善美」のうち、戦後の日本人が熱心だったのは「善」、それも自分がいかに善人であるかを示す表現だけ。「真」に触れるのは常にかなりの勇気が要り、美にいたっては(ファッションとエステ以外)考えたこともない、という人も多い。「美」は自分の選択と責任において、究極的には自分の美学に命を賭けることである。
 実際の方法としては、満十八歳ですべての国民を奉仕期間として一年間動員することを提唱した。大部屋で生活させ、長距離を歩かせ、早起きをさせ、力仕事をさせ、テレビなどなりも同様の暮らしをさせる。身体障害を持つ青年も全く同じように動員して、できることをしてもらう。今までの教育は受けることを権利として教えるのが流行だった。しかし今度は与える幸福を実感させる番だ。人権ではなく、愛を教えるのだ。この二つは、関心と感情が向かう方角が百八十度違う。
 戦闘にのみ必要な技術は一切させないが、大学へ行くよりこの際、農業をやってみたいとか、木工所で働いてみたいという青年には、できるだけ希望を叶えてやる。重機のオペレーターになりたいという青年があれば免許を取らせて、災害地や老人施設の建設などにも働かせる。少なくとも、老人介護の人手不足はこれでほとんど解消するだろう。
 
三月二十八日
 午前十時、保安靴をはいて出勤。財団で執行理事会の後、午後から横浜の関東運輸局へ行き、検査官について、現場でポート・ステート・コントロール(寄港国による外国船に対する立ち入り検査)の業務を学ぶ。
 平成十一年度でもっとも拘留率の高い国のワースト3は、北朝鮮、カンボジア、ベリーズの三国であるという。このうち北朝鮮は自国船だが無線機を持たない船さえある。金がなくて買えないのである。ベリーズは船籍を貸す国として、今や有名だ。煙突の印象が暗い、と皆が言う。
 拘留処分の理由の主なものは、救命設備関係や航海機器関係の不備などである。航海機器関係の不備というのは、海図を持たない、航海灯がつかない、などというものだ。無灯火の自転車がぞろぞろ走っている国はたくさんあるから、大体想像がつく。
 今日午後の検査の対象は、オンボロの中国船。船体の機能に三十六カ所の不備があるので、出港を許可していないのである。
 日本の内航船だったものを売ったのだが、この船も詳細な海図を持っていなかった。救命艇を下ろす装置も錆びついてよく動かない。縄梯子も規格に合っていない。
 乗組員は、簡単な英語もわからないようである。しかし驚くべきは、その積荷であった。屑鉄というから、カンナをかけてきれいな屑になった鉄片を想像していたら、何のことはない。腐ったダンボール、発泡スチロールの箱の破片、ラーメンの空き袋まで混ざった塵が積荷である。もしかすると、使用済みの使い棄て注射器も入っているかもしれない。確かに鉄屑もあるだろうが、つまり全体の何パーセントが金目になるかわからない代物で、「福袋的積荷」と言うべきか。
 こうした船は、日本で修理をしたり、必要とされるものを買ったりすれば、非常に高くつくだろうが、前にも警告してあったことだそうで、いい加減な整備では日本の海域に入れない、と思わせることが安全に繋がるというわけである。
 
三月二十九日
 一大決心でお雛さまをしまう。
 毎年、めんどうくさくて、飾るのを止めたくなるのだが、数年に一度は出すのが義務だと思う。一度出すとつい長く出しておく。お雛さまを早くしまわないと、娘が嫁に行き損ねる、と言ったものだ。しかしうちには嫁に出したい娘もいないし、四月三日まで一月延ばそうと思っていたのだが、それも長過ぎると思うようになった。いろいろと意志が弱いのである。三島由紀夫の作品に秋に雛を飾る話があったのを思い出した。
 その作業の最中にベトナム人のドクター、今は日本国籍を取った武永賢さんが、南極の氷を持って来てくださった。越冬隊の船医を務められたのである。すばらしい青春!
 
三月三十日
 クライン孝子さんと再び三戸浜へ。
 夕方のしんみりした港町をお見せしてお寿司屋さんへ行こうとしたら、木曜日はお休み。初めての「港料理」を食べさせる家に入ったが、ここ一週間くらい時化続きだそうで、メニューはあまり多くない。孝子さんはシラスご飯、私は鉄火丼。気がついてみると、私たちが坐っている椅子は、発泡スチロール以前の、豪快な木製の鮪のお棺。
 店の人は食後に、蜜柑やらコーヒーやらを持って来てくれる。長喋りのおばさんたちには、こういうサービスが喜ばれることを知っているのだろう。
 
四月二日
 妹夫婦とシンガポールの友人陳勢子さんと三浦朱門とで、自由が丘で食事。その前に、十年ぶりくらいに自由が丘の商店街を少し歩いた。私はイスラエルヘ行く時のブラウス、勢子さんはダンスのスカートや靴などを買う。ダンス用品の専門店があったのだ。
「スカートの一番大きなサイズは、ウエスト何センチまでありますか?」
 と私は要りもしないことを聞く。八十八センチまでというので、
「それじゃまだ少し余裕がありますね」
 と喜んでおいた。
 レストランヘ入る前に小さな公園に入って二人して三分咲きの夜桜を眺めた。
 
四月三日
 夜中に小渕総理入院の報をテレビで見るが、何時だったか記憶がない。
 午後、日本財団で辞令交付。
 四時半からホテル海洋で、今年度日本各地の大学で研修する中国医学生百人の歓迎式典。
 歓迎の言葉の中で「日本と中国は大変違います。日本には中国レベルの特権階級も権力者もいません。日本は中国よりはるかに社会主義的です。その違いを見て行ってください」と言ったら、皆笑っていた。
 大阪から暁子さんと孫の太一母子が泊まりに来る。太一は来年、東京の大学を受験する。というと早まった人が「東京大学を受けられるんですね」というので、彼は最近用心し、「東京の大学」とのの字のところに力を入れて発音している由。
 
四月四日
 午前十時、執行理事会。
 十一時、運輸省機関紙『トランスポート』インタビュー。
 午後一時『時局』誌インタビュー。
 二時、建設省、青山氏他。
 三時半から、ホテル海洋で定例記者会見。
 その後、本年度、事業決定通知会。知恵遅れの子供の施設から、訪問入浴車、スポーツ団体など、今年度の補助金を決定した団体の責任者の方たち、約八百人ほどのお客さまにお会いする。その途中で、二度、小渕総理死去の報を伝えられるが発表しなかった。後でわかったのだが、つまり誤報であった。信じなくて、ほんとうによかった。
 
四月五日
 私は日本財団へ勤めるようになってから四年半、友達を競艇に誘うこともなかった。もっとも日本財団が競艇を開催しているのではない。
 いつ誘ってくれるのか、という厭味もちらほら聞こえて来たので、この際、昔からの知人を一挙に招待することにした。
 バスは十時半、財団前発。約八十人。幸い今日は特別レースではないので、記者席が空いているという。喧しい一団はここに隔離して頂いた。
 北杜夫さんは財団の秘書課に「ボクは全財産を持って行くですゾ」と予告された由。三浦朱門は嬉しそうだが、それは舟券を買わずに、もっぱら場内の食堂を食べ歩きするためである。こういう人は「競艇界の敵、場内食堂街の友」である。実際、おいしい煮込みライスを発見して、そこに何度も招待客を案内した。私がけちして、招んだ客にお弁当を出さなかったからである。何度目かに食堂のおじさんは三浦の姿を見ると深々とお辞儀をするようになった、と当人は言う。
 どうしてだか知らないが、私の知人たちはよく当てる。「持ち逃げして悪いですねえ」という不遜な客もいた。レースの度に配当を受け取る窓口に列ができた。しかし賭け金は良識の範囲。同じ窓口で十万円単位で券を買っているニッカーボッカーをはいたロイヤル・ルームのお客さまとは、金の使い方が違う。
 太一たちとフランス料理を食べる予定だったが、太一風邪気味なので中止。家で夕食。
 
四月七日
 午後一時半、財団で『Grazia』誌のインタビュー。
 三時半、靖国神社へ。私が昔『或る神話の背景??沖縄・渡嘉敷島の集団自決』を書いた時に知り合った海上挺身第三戦隊の方たちが靖国神社に参られる、というので、加えて頂いたのである。
 靖国神社は、信仰はなくても、戦死者のことは考えなくても、花見の人でいっぱい。この繁栄を、国を愛して戦って亡くなった方たちはやはり喜んでいてくださる、と信じる。
 帰り、千鳥ヶ淵の無名戦士の墓所にも寄った。もう入り口は閉まっていたが、柵の手前で礼拝した。
 六時から、海上保安庁、海上自衛隊、双方からいらしてくださった方々と、強いて言えば海上保安のための諸問題の「意志疎通の会」。
 酒は各庁から一本ずつ。財団も一本。スキヤキの材料実費として千円ずつを申し受けた。
 
四月八日
 朝早く、従兄の息子の運転する車で箱根へ。叔父、叔母、六歳年下の従妹、のそれぞれ三十三年祭、三十一年祭、二十三年祭が、強羅のカトリック箱根教会で行われるのに出席。御殿場近くになると、富士山がのしかかるような大きさになって感動する。三戸浜の庭から見る富士山なんて、ブローチみたいなもんだ、と思う。
 終わってから墓参。
 その後、富士屋ホテルで会食。高校生の頃、私は当時進駐軍に接収されていたこのホテルでアルバイトをした。とは言っても、叔父の家で食べさせてもらっただけで無給だった。戦後間もなくで、することもなく、お金もないので、私は箱根で遊んでいたわけだ。その時の体験をもとに書いた『遠来の客たち』で私は小説家になった。
 富士屋ホテルのカスケードと呼ばれる宴会場で、いかにも富士屋風のオーソドックスなおいしいフランス料理を供される。帰りは混雑を恐れて、登山電車と新幹線を乗り継いで帰ったが、車も空いていた由。
 
四月十一日
 午前中、財団で執行理事会。
 夕方、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会を財団の会長室で。今回初めてカメルーン在住の優秀なピグミーの生徒に対して奨学金を出すことにする。会の後で、チャド、ボリビア、カナダ、カメルーン各国からシスター方が見えておられるので、財団の職員も加わって短いレクチャーを頂く。財団は昨年チャドを訪問しているので、シスター方とはひさしぶりの邂逅を喜び合った。せっかくの夕食なので、鯖鮨と鯛鮨を山陰から少し取り寄せておいた。「シスターが優先です」と言ったら非難の眼差しを感じた。
 
四月十四日
 三戸浜から出勤。総理官邸で第二回、教育改革国民会議。新聞記者二人から同じ質問を受ける。「中間答申はいつ出ますか?」こんなことはほとんど教育の本質と無関係。それ以外にマスコミは聞くことがないのか。
 森総理になって初めての会議。マスコミは皆森総理の性格についていろいろなことを言っているが、どうしてそんなによく知っているのだろう。私は、そうとう親しい人でも、最後まで本質がわかるはずはないと思うから人物評ができない。
 終わって懇親会。この会は本来、小渕前総理がされるものだったが、森総理も、その後を引き継いで、大変に熱心で、毎回出席を望んでおられるという。しかし総理の出席可能な日だけ会議をやっていたら、とても中間答申どころではないだろう。
 
四月十六日
 知人の夫婦と、丸の内の展示場に着物を見に行く。外国育ちの夫人に、着物にはどんな種類があるか教えようという余計なおせっかいも入っている。
 その後、横浜へ出て、「みなとみらい」でインド料理を食べる。カレーはやや日本風だが、野菜カレーのおいしさを知る日本人は多くなった。インドにれっきとして残るヒンドゥの階級制度では、最上階級のブラーフマン(僧族)が菜食を守っている。しかもヒンドゥの人たちは、自分たちより下の階級が調理したものは食べないから、料理人はブラーフマン階級の仕事である。従ってインドでは菜食メニューは非常に凝っていておいしい。
 食後、「サカタのタネ」の店に寄ってついついいろいろなものを買う。椎茸の原木、ペチュニア、アザレア、藤色の西洋シャクナゲ。椎茸はうちでもよく採れるものだ。銀座で雨が降ると、三浦朱門までが、「さあ、今日の雨で、椎茸はぞっくり出るぞ」と言うようになっている。
 
四月十七日
 夜、PHP第一出版局の松本さんと阿達さん来訪。教育改革国民会議の話が出る。一九八四年から三年間続いた臨教審の時にもそうだったが、私は会議に出ている時、さまざまな思いが湧いて来る。それをこまめにメモしていて『二十一世紀への手紙』という教育に関する本を書いた。
 あの時と今と全く状況は変わっている。荒廃はもっとひどいらしい。人間ではない「人間もどき」がたくさん生まれているのだろうか。人生についての公然たる嘘も蔓延している。今度もまたしきりにメモを取りたい気分になっている、と言ったら、それを連載にしないか、と言ってくださる。「たった一人の自己教育」を理想にしなければならない、としたらいささか悲しい状態だが、まだまだ方法は残されているし、希望もある。私は日本人の質のよさを信じているのである。
 
四月十八日
 午前十時、執行理事会。
 十一時、駐マダガスカルの日向大使夫人由子さんが、日本財団と私が個人的に働いている海外邦人宣教者活動援助後援会が援助しているマダガスカルの幾つかの事業について、現地で仕事をしているシスターたちからの報告書を持って来てくださった。日本大使夫人が、現地の事情に静かな惻隠の情を持ってくださる、ということは友好の基本だし、大きな力を発揮するだろう。日本財団が拠出した看護婦さん養成のための寄宿舎も、立派に建っている。日本人のシスターたちがお金とものの出入りを見張っていてくださる限り、お金が洩れることはない。感謝の限りである。
 午後二時、「海上保安の未来を考える会」の第二回会合。品川の海上保安庁の専用埠頭に着いている巡視船「まつなみ」が会場。接岸したままかと思っていたら、東京湾アクアラインの付近まで巡航しながらの会議である。
 この巡視船は、平成七年建造、百六十五トン。全速で二十五ノットというから、今日の委員の中にはこれより速いモーターボートを持っている方も数人はおられるだろう。
 昔私は少し船の勉強をしたので、日本財団に行っても、海事知識がゼロということはなかった。しかし今日の会合は皆専門家ばかり。ヨットレースの常連だったり、歴史に詳しかったり、朝鮮半島の専門家だったり、科学的知識全般に強いジャーナリストだったり。私は何しろ海が怖い。五十メートルずつしか泳げない。科学的知識には相当弱い。
 今は財団が、「メガフロート」という人工浮島の開発や、マラッカ・シンガポール海峡一千キロの保全や、北極海航路の開発や、海賊対策会議の開催などにお金を出しているので、止むなくそれらに関わって耳学問もしているが、日本は大方の地図に示されている位置より北西に四百五十メートル動いているなどと聞くと、やたらに感動する。地球の温暖化で水面が一メートル上昇すると、柴又と池袋を結んだ線の南側の地域の非常に多くが水に浸かる、などということを知ってもびっくりする。しかし水位が一メートル上がるということはなかなかあり得ないだろう。
 夜、財団で歌川令三理事の『渡る世界は鬼もいる』の出版記念会。壁の飾りも歌川さんの友人の制作。お料理も財団の食堂のコックさんの心尽くし。三百人以上ものお客様で、ビルの床が抜けそう。
 誰かが「ソノさんの時の会より盛大なんじゃない?」と喜んでくださったが、考えてみると、私は生まれてこの方、プライベートでこうした会を開いたことが一度もなかったのだ。ほんとうにひねくれた人生だった。
 
四月二十日
 昼ご飯の椎茸のオムレツに玉葱のバターいためを添えた。どちらも絶品。昨日から少し風邪気味。
 再び寒い。然し恵みの雨。土が芯まで濡れるのは、何とも豊かな気持ちである。ツツジがやっと咲き始める。紅、ピンク、白、藤色。あまりのみごとな春の色に、何で毎年、これを見ないでいたのだろう、と自分を恨めしく思う。
 



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