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ルワンダという国は、私にとって遠い国であった。距離的にも、意識的にも、心理的にも。 私は良心的にヒューマニスティックに生きねばならないなどと、今までほとんど思ったことがない。理由は簡単で、口では何でも言えるけれど、いざとなると私はそんなに立派に行動することはできない、と信じているから、ルワンダの虐殺のことは耳にしても、そのことについて深く考えたくないのであった。 それとは別に、一九九七年の春頃から、私は一つの旅を企画していた。それは花見の旅とか、名刹巡りとかいうのと同じような意味で「世界的な貧困を知る旅」であった。この「貧困を知る」という言葉遣いや態度について、私がいささかこだわっていることについては今までにも書いたことがあるのだが、この雑誌の読者が私の文章を読んでいると決めるのも、また途方もない思い上がりなので、重複を承知で簡単に述べることにする。 私は今まで二十五年間、海外邦人宣教者活動援助後援会という、外国で働く日本人の神父と修道女を経済的に支援するNGOで働く羽目になっていた。神父と修道女たちが、一番洩れなく、けちけちと正確にお金を使ってくれるから、私はいわば彼らを利用したのである。それでもなお、私は彼らを信用しなかった。人さまからお預かりしたお金は、厳密に行き先を見届ける義務がある。だから私はブラジルの果てまで、私たちの組織がお金を出した所を、自費で「査察」に歩いたのである。こういう場合、作家の目と調査の方法は、刑事並みに役に立った。その結果、私は世界の貧困についてだけは、図らずもかなりの専門家?になった。つまり、そうして貧困の直中に入っている人たちに教えられたのである。 もっとも、「貧乏を見る」とか「貧乏を学ぶ」という言葉を使う度に、私は初めずいぶんこだわっていた。自分は飽食し、お湯も出れば空調設備もある結構な住居に住んで、人の貧乏を外側から「知る」とか「学ぶ」とか言うのは無礼である。しかしそれを言っていたら、日本人の九十九パーセントが、今夜食べるものがなくて飢え死にしそうになっているのではないのだから、日本人は一人として貧困の本質を知る人はなくなってしまう。 いささかの心理的な葛藤の後で、私はセンチメンタルになることをやめることにした。その時から、私は貧困地帯を選んで歩くことを私の仕事と思うようになった。それほど私の周囲には、貧困を知る人がいなくなっていたのである。 私は若い世代にも本当の貧困を知らせたい、と思った。殊に私の勤める日本財団は、内外の物質的、教育的、社会的、医学的遅れの部分に手を貸すのが仕事だから、財団の職員もまたあらゆる形の貧困に関する知識の専門家になってもらわねばならないのであった。 私はマスコミと官界にも、同じような知識が不足していることを感じた。新聞記者たちは、自分は世界のどこにでも入り込んで取材できると感じているらしかったが、それは一種の思い上がりであって、貧民窟はバッキンガム宮殿より、もっと外来者を厳しい疑惑の目をもって選別し、余所者を自分たちの社会には受け入れなかった。それらの土地へ入るには、長い年月をかけて培った人脈が要る。私は世界の有名人との知己はほとんどなかったが、貧しい世界に入り込んで働いている人たちとは、深い信頼で結ばれていた。 運輸省、厚生省、毎日新聞、読売新聞、共同通信、衛星チャンネル、ラジオ日本、それぞれの記者たちによる混成部隊は、初めマダガスカルの電気も水道もシャワーもトイレもない僻村の修道院に泊まって医療活動を見、南部の植林のために働くNGOの活動の現場に行った。それから私たちは、アジア医師連絡協議会(AMDA)が基地を作って活動しているルワンダに入った。その計画がはっきり決まってから、初めて私はルワンダの位置を正確に知ったのである。 私たちはケニヤのナイロビから、飛行機で一時間ほど、真西へ飛んだ。キリマンジャロは全く見えなかったし、ヴィクトリア湖も雲の下だった。そして私たちはルワンダの首都キガリに着いた。人口は一九九四年に七百七十九万人、一九九五年に六百四十万人という。この急激な人口の激変が、難民の流出といわゆる百日問のジェノサイド(大量虐殺、一九九四年の四月〜六月)があったことを物語っているのである。殺したのは人口の九十パーセントを占めるフツ族であり、殺されたのは九バーセントしかいないツチ族とそれに繋がりのあったフツ族たちであった。殺された人たちは、男女、老若の差はなかった。すべての人が皆殺しの対象であった。 大昔、私は大学にいた間も、勉強する気がなくて英語の学力はなかったせいか、「ジェノサイド」などという単語を、聞いたことも見たこともなかったような気がするのである。ゲノスというのはギリシア語で部族を指し、それにラテン語の「殺す」という意味の語から来たcideが添えられたものらしいから、部族虐殺という訳の方が正しいように思う。 昔からアフリカの広い土地には、農耕民であったフツ族と、牧畜民であったツチ族とがいた。常識的に考えても、定住している農耕民であるフツの土地に、牛を引き連れたツチが入ってくる。牛は何でも食べられるものは食べ、畑を踏み荒らす。両者は運命的に、お互いさま不愉快な存在であったろう。 しかしこの部族虐殺は自然な部族の対立感情が爆発したものではなく、完全に「行政、軍部、政治の最高機関からの指令によって行われたものだ」と「アフリカの真相」社出版の『ルワンダ そんなにイノセントではない 女性が殺人者になる時』は書いている。中間のレベルでは、行政官、ジャーナリスト、ビジネスマン、官吏、学者、教師、学生、主婦、医師、看護婦、農民、商人、裁判官、神父、修道女、地方のNG0のスタッフ、外国の代理店の職員、などすべての人がその殺人にかかわった、というのである。 私達はAMDAが管理するクリニックを見るのが仕事だったが、一日を割いてキガリの南東のニャマタ教会と、そこから少し西に行ったヌタラマ教会の二カ所、どちらも教会に逃げ込んだ人々を含めて数千人から数万人が殺された現場へ行くことにした。 ニャマタ教会の外には二カ所のコンクリートの地下納骨堂がある。まるで未完成の建物の基礎のように、その上を大きなビニール・シートが覆っていたが、それを取り除くと、そこに扉も何もない地下への階段が現れた。 吹き出して来たのは、強烈な臭気だった。もう二年以上も経っているのに、その臭気は全く衰えを感じさせなかった。私はその中に入って行くのをためらわなかった。作家である以上、私は今まで現場に「入り、見る」という原則を拒否しないことに決めていた。その時もそれに従ったまでであった。 しかも、私はその臭気を、死者の語りかけと感じた。それ以外に今や彼らは、私たちに訴えるすべがないからだった。 地下墳墓の、三段の棚の上段には頭蓋骨が重なり合うように置かれていた。彼らの眼窩には土が詰まっていた。そこから植物の根が生えている。下段に納められた手や脚の骨は、黒ずみ、黴が生え、遺体の一部というより、薪のように変色していた。 ツチ族は背が高かったという。恐らく百七十、八十センチは楽にあったろうと思われる脚の骨などは、素人が見ても信じられないほど長かった。 彼らは、先に曲がった爪のついた棍棒、草刈り鎌、槍、小銃、手榴弾などで殺されたのである。かつて堺市の市民団体が、アフリカの黒人が槍を持つ姿を描いた新潮社の本の表紙に、それはアフリカの人たちをバカにしたものだとして文句をつけたことがあったが、アフリカでは今でも槍は正式な部族の誇り高い正装にはなくてはならないものであり、実際の「闘い」の武器でもあることが、皮肉にもここでも証明されたのであった。 ツチ族の人たちもカトリックで、彼らは何かあると、必ず教会の建物に集まった。聖なる場所で無残な殺戮は行われないだろう、という考え方があったのと、すべてのことは教会の指導のもとで、皆が同じ姿勢で対処するといういささか封建的な姿勢が身についていたからであった。 それらの死者の多くは若い人たちであった。歯医者もいず、栄養もよくないアフリカの女性は、子供を一人生む度に、二本の歯が抜けると言う。だから三十代でもう十本以上の歯のない女性は珍しくない。それなのに、立派な歯がすべて揃った頭蓋骨が多いのは、死者たちがまだ若かったことを示していた。彼か彼女かが失った若さの輝き、その疼くような青春、将来得るはずだった家庭の団欒はこうして情容赦もなく取り上げられたのであった。一度しかない人生を、彼らは何も体験しないうちに殺された。それを思うと、私はどうして同じ人間にこのような運と不運があるのか、といういつもの素朴な疑問に投げ込まれた。 このような部族虐殺が極く最近起きたということの背後には、一体何があったのか。恐らく、それはこの限られた紙数では書き切れない。しかし私はルワンダに入った以上それを試みるべきだろう。 部族虐殺が始まる以前七百万人以上の人々のうちの九十バーセントは、農業で暮らしていた。ルワンダは十九世紀の奴隷売買を逃れた国で、軍隊の制度もあり、ヨーロッパ人がここに入った時には、既に国家の形態をなしていた、という見方もある。もっとも、国家という言葉によって、私たちが想像するものとは、いささか異なった形態ではあったろうが……。 そこで入って来た植民地主義者たち??まず初めにドイツ人、それからベルギー人??が、人種上の類型学を持ち込んだ、ということになる。つまりツチ族を貴族的な指導者と認定し、フツ族を小作人、或いは農奴と見なしたのである。少数民族のトワ族は二部族に分かれていた。北西部の狩猟民と陶工を業とする人たちで、彼らは、フツ族とツチ族双方から劣った人たちと思われていた。 しかしそのツチ族も最終的にはデモクラティックなシステムを作れないと見たカトリック教会はフツ族を支持したりしたこともあるらしい。一九五九年のムワーミ・ムタラ・ルダイグワ王の突然の死の後、フツ族の指導者たちは、ツチ族に対する積年の階級上の恨みを晴らした。一万人が殺され、ツチ族の家も焼かれた。約五万人のツチ族がウガンダなどの近隣の国に難民として逃げ込んだが、ほぼ七年の間に二万人のツチ族が、断続的に虐殺されたという。こうしてルワンダにおけるツチ族の人口は半減した。 しかし残されたツチ族は教育においても優位にあり、中産階級も多かった。一九七三年に、神学校や大学だけでなく、あらゆる教育機関からの、ツチ族追放が激しくなった。 国から逃げ出したツチ族は、特にウガンダでは悲惨な生活を強いられた。虐待がひどかったのである。一九八二年から三年にかけて、数千人のツチ族難民が南西ウガンダから追放された。一部のツチ族はこの時に祖国ルワンダに戻ろうとした。しかしルワソダのハビャリマナ政権はこれを受け入れなかった。このあたりの状況は、私が日本語で手に入れた資料では、ハビャリマナ大統領は当時フツ族とツチ族の宥和を計って安定した政権を保っていた、ということになっていて、これはかなりニュアンスが違うから、どちらが正しいのかよくわからない。 とにかく自国から拒否されたツチ族の人々の多くは、ムセヴェニの率いるウガンダのNRA(ナショナル・レジスタンス・アーミー)に加わることになった。彼らは一九八六年にカンパラを攻略して、政権を取ることに力を貸したわけだが、それでもウガンダの社会からは決して正当に受け入れられなかったし、反ムセヴェニ側の勢力からは深い反感を買うことになった。 彼らは祖国を追われた根無し草であった。そういう状態で彼らはハビャリマナ政権から追われたルワンダの政治家たちとも結び、RPF(ルワンダ愛国戦線)を結成すると、一九九〇年には北ルワンダに侵入した。 その頃、ルワンダは別の混乱に見舞われていた。西側の資本が入り、通貨の切下げが行われ、主な産物であるコーヒーの価格の暴落までがそれに拍車をかけた。フツ族の過激派、CDR(ルワンダ防衛連合)が結成されたのもその頃だった。 一九九〇年十月から一九九三年八月までの間に、三十万人もの人々がこの抗争のために土地から追い払われた。闘いは拡大しながら、続いたり止んだりした。ルワンダ政府は五千人の兵員を、エジプト、フランス、南ア、などから「輸入」することで三万五千人にまで増強した。 一九九三年八月、やっとOAU(アフリカ統一機構)の調停で、タンザニアのアルーシャで協定が結ばれた。 しかしこれは、どちら側の勢力をも満足させなかった。ハビャリマナは彼の支持者からの強力な圧力を感じつつ行動していた。一九九四年四月六日、ハビャリマナはタンザニアで近隣の指導者たちに会うことになった。 同日の午後八時半にハビャリマナ大統領はキガリ空港に帰る予定だった。しかし空港近くで、彼の飛行機は撃墜され、新しく誕生したばかりのブルンジの大統領、ハビャリマナの長年の閣僚たち、フランス人の乗組員全員が死亡した。これが部族虐殺の発端であった。 大統領死亡の最初のニュースは、過激派の牛耳るラジオ・テレビ局「リーブル・デ・ミル・コリンヌ」が報道した。これが部族虐殺の合図だったという。半時間のうちに首都キガリ中の主な道路は封鎖された。翌七日の早朝から、殺戮は始まった。 最初の標的は、過激派の計画に反対した穏健派のフツ族の年長の政治家たちであった。飛行機の撃墜から半日の間に、主な党派の多くはリーダーたちを失った。女性の首相、アガタ・ユウィリンジイマナもその一人だった。外国と関係が深く、殺戮の何であるかを正当に認識していたジャーナリスト、人権運動の指導者、カトリックの司祭などは、殺されるか、強制的に連れ去られた。 ツチ族に対する虐殺は市町村や地方で、七日の早朝から始められた。まだ殺戮が始められない地方でも、ツチ族の家が焼かれ始めた。脅迫と恐怖に脅え切って、彼らは保護と安らぎを求めて教会に逃げ込んだ。教会は困難と危険を感じた時、いつも彼らが逃げ込んだ伝統的な魂の聖域だったからである。 (この項続く)
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