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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 全能なる存在?人は何も見えていない…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 118  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/02/10  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一月三十一日の九州朝日新聞で、私は「ちょっとひとこと」というコラム欄で、作家の高樹のぶ子さんが書かれたものを読んだ。
 高樹さんは次のように書いていらっしゃった。「それにしてもどうして宗教は、あんなに何でもよく『わかって』いて、『わからない』ものが無いのだろう。人間について、宇宙について、神について『わからない』ものがあっては、宗教ではないのだろうか。全能なる存在にも、『わからない』ことがある、そう言ってもらえると、片耳くらい傾けてもいいのに、この世、いやあの世までもすべてを明確に説明されると、すべてが嘘に見えて来る」
 私がたった一つ、比較的よく知っていると思う宗教はキリスト教だが、聖書は全編これ、人は何も見えていないものだ、という話ばかりである。たとえば旧約の詩篇(103・14〜16)は言う。
 「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ生えていた所を知る者もなくなる」
 また「ルカによる福音書」(8・9)で、イエスはたとえを用いて説教をする理由について、「それは『彼らが見てもみえず、聞いても理解できない』ようになるためである」と答えている。つまり自分はすべてを理解できる賢い存在だと思わせないようにするためだ、というのである。
 パウロは「コリントの信徒への手紙?」(3・18、19)の中で更に簡潔に言う。「もしあなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。此の世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」
 昔、ユダヤ教のラビの先生の講演を聞きに行った。最後の質問の時間に一人の学生が、「どうしてユダヤ教というのは、聖書の教えだからと言ってブタやエビを食べてはいけないと言うのですか。今世界では誰でも食べているのに」と質問した。すると先生は答えた。「今から二百年前、今私たちが使っているようなものは、何一つこの世に存在しませんでした。飛行機もテレビも電話も鉄道も自動車も、何もなかったのです。私たちは常に永遠の未知なるものの手前にいます。ですから、理屈がなくても、命じられたことは一応守っておくのです」
 永遠の未知なるものの手前にいるという感覚はキリスト教でも同じである。少なくともキリスト教は、人知では多くのものがわかり得ないという立場をくずさない。しかし「全能なる存在」にまでわからないことを求めるのは論理的に無理だろう、と思う。なぜなら全能という言葉は、総てが可能であることを示し、それは神のみの特性だからだ。そして全能なる存在に代わって人がものを言うようになったら、それこそ知ったかぶりになると思うのである。
 



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