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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 幸福の条件?“じらせる”のが料理上手のこつ  
コラム名: 自分の顔相手の顔 161  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/07/21  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   畑を作っている海辺の家に時々人を招くことがあるが、その時、「まあまあ、あの人(私のこと)は料理がうまい」と言われるこつがある。
 それは招いた人に夕食まで、ほとんど何も出さないことである。出すなら渋茶いっぱいというところだ。
 その間に小さな畑に案内し、菜っ葉や蕗(ふき)の薹(とう)などを採ってもらい、その場ですぐ料理にかかる。今ならミョウガや青紫蘇の葉がいい時期だ。ミョウガは刻んで水にさらし、おかかと醤油をかける。青紫蘇は胡瓜と酢の物にする。いずれも手抜き料理の酒の肴だが、人間というものは自分で採って来たものは、特別おいしいように思うものだから、その錯覚を利用するのである。
 こちらが駄菓子一つ出さないので、お客はだんだんお腹が空いて来る。ことに海辺に来ると転地の作用が働くのか、目がまうほどお腹が空いたという人もいる。
 それでも夕方五時頃からは、そんなことに気がつかないふりをして、お風呂に入ってもらう。夕風の中で、一風呂いかがですか?というわけだ。幸い夏でも鶯(うぐいす)がすばらしい声で鳴き、夕映えの中で飛んでいたのは「あれは燕ではなくて確かに蝙蝠(こうもり)でした」と報告してくれる人もいる。私は長らく住んでいても、蝙蝠に気がついたことはなかった。その人の田舎では昔蝙蝠を食べたそうで、そういう話が出るようになったら、お腹の空き具合も頂点に達している。いつ食べ物が出て来るのか、と目つきも変わっている。こうなれば何を出したっておいしいというに決まっている。
 そんな時いつも私は母を思い出す。昔風の感覚で言えば、お客さまにお腹の空いた思いをさせるなんて、母にはとうてい許せないことだったろう。母はいつも来客をごちそうずくめにするのが好きだった。
 それから私は、やっと食べ物を出すのだが、人手もないことだし、一品ずつ作る。正式のディナーだったら許されないことだが、ちょこちょことガス台の前に立って、お喋りしながら、キンメの煮付け、サヤインゲンのいためもの、タコのサラダ、地鶏の塩焼き、中国風のステーキなど、すべてお客さまの顔を見ながら、作り立てを出す。
 これが不味(まず)いわけはないのである。
 食べることが苦痛だ、と言った病人のことを私は思い出す。私もいつかはそういう不思議な苦痛を感じて死ぬことになるのだろう。食べたくないというのは、もう生きていなくていいよ、という神さまからの解放の合図だと私は思うことにしている。しかし今は、普通に生活できて、その上お腹まで空いた時、おいしい食べ物まであるなんて、最高の幸福をもらっているのだと思う。
 こういう幸福の条件を与えられていない人は、地球上のどこにでもいる。別にその人が悪いわけではないのだ。貧しい国家に生まれたからに過ぎない。人生は不公平そのものだ。
 



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