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紙幣は十五の公用語で インドは初めてである。仕事で出かけようと思えば、機会がないわけではなかったが、先送りしてきた。インドは広くて、雑多で、しかも奥が深いから、旅行記を書くには、難しい国ではないか??。そういうある種の気後れがあったのかもしれない。というわけで、今回のインドは、かなり予習をしてから出かけた。 インドは、東西、南北ともに三千キロ、その広さは「国」というよりも、「大陸」といったほうがふさわしい。全ヨーロッパと同じ大きさをもつ。「東西、南北、縦に行っても、横に向かっても、人々は異なる、言語は異なる、習慣は異なる。こんな並はずれた多様性をもつ国は、この地球上でインドをおいてありや?」と“冒険旅行の福音書”の定評をもつ英国発行の“Lonely Planet”(地球一人歩き)に、ある。 「そう。そのとおり。五十マイルも旅すると異なる人種、異なる言語になるのがインドなんだ」。首都デリーのホテルで、懇談した文化人類学者、アンドレ・ベティーユ・デリー大学教授がそう言った。アンドレとは三年前、ドイツで開かれた「文化のグローバリゼーション」と題するシンポジウムに出席し名刺を交換したことがある。E?MAILで連絡をとったら、わざわざホテルまで訪ねてくれたのだ。 アンドレはインドの多様性を説明するために、ルピー紙幣を一枚、食卓のテーブルに置いた。英語、ヒンドゥー語、サンスクリット、ベンガル語など、十五の公用語が、印刷されている。「インドには、四百の言語がある。そのうち十五の言葉で、この札の価値を記しているんだ」と彼。「5とか10とか、インド人はアラビア数字はわかるはずだ、識字率が低いとはいっても……」といったら「多分、君は正しい。でも国家が紙幣に強制通用力を持たせるには、そういう面倒な手続きが必要なんだ。そこが、多言語、多民族、多宗教インドならではの現象さ」と。 思い切って「インドとは何ぞや」と問うたのである。「インドとは、いろんな顔をもつ不思議な国。日本人にとってはもちろんのこと、時にはフランス人を父に、インド人を母にもつインド人の私にとっても。君の旅行中、見聞きするものは、ことごとくインドであることは私が保証する。一つひとつが、まさしくインドなのだ。だがそれは全体像ではない。だから君のいう“多様性”をもって、“What is India?”の解とはなし難い」と彼はそういうのである。 多様性のなかに統一性、共通性をどこに求めるのか。それがインド学の根本テーマだともいった。(ついにおいでなすった。だから俺はインド人が苦手なんだ)。少々自棄っ腹になる。こう言ってみた。「わかった。わかった。その統一性とやらは、食物だ。カレーライスだろう」と。 意外な答えが戻ってきた「ウン。そういう答えも悪くはない。文化とはしょせん、心の態様であり、インド人であることは帰属意識の問題だから……」と。 CambridgeにOxforde、そしてChicago大学で教鞭をとった高名な学者、アンドレの口答試問をパスしたのか、それともからかわれたのか。今もって謎なのだが、「わけのわからぬバラバラのインド、それを繋ぎ合わせて、まがりなりにも“一つのインド”の体裁をつくろっているのはカレー料理だ」と、以後、思うことにした。それは、私にとってまさしく「インド発見」であった。 “カレー”の命名者はポルトガル人 インドは一週間の滞在だった。アンドレとの二時間半におよぶ会食以外は、(彼はHotel Oberoiの北京料理を所望した)は、毎食カレーで押し通した。「物好きな男。よく腹がおかしくならんね」。帰国後、よくそういわれる。が、腹の調子はかえってよくなった。この国のカレーには、薬膳の効果があるらしい。インドでは毎食カレーが当たり前、つまり日常茶飯事である。 カレーとは何か。頭ではわかっていたつもりだが、やはり、にわか仕込みの知識は、すぐに身につかない。デリーの住宅地、観光客のあまり行かないインド料理専門店での夕食、ニューデリー駅から一時間二十分の郊外から通勤するガイドのラジ(RAJ)君を引き止め、食事に誘ったときのことだった。英語のメニューもある。でも、七十以上もあるメニューの品目に、Curry(カレー)と明記されたものがなぜか三つしかない。 「地元のわりには案外カレーが少ないんだね。この店は……」。ついそう口走ってしまった。ラジ君は、デリー大学物理学科の秀才だが、就職口がない。卒業後二年間、日本語を学び、デリーの日系旅行会社にもぐり込み、まあまあの日本語と得意の英語でガイドをやっている。 相手が悪かった。彼は私の失言を聞き逃さなかった。「この店で出すものは、紅茶、コーヒー、コーラ以外はすべてカレーです。煮ものも、妙めものも、スープも、焼きものも。そもそもカレー料理とはですね……」。ラジ君はカレーについて、まくしたてた。おそらく、日本の観光客相手に何度も同じ解説をしたことがあるのだろう。 「いや。わかってるよ」とさえぎったが、止まらない。私との間に、日本語と英語のゴチャ混ぜのデイベートが始まった。彼のカレー論の半分は、私のインド予習で得た知識の範囲内だったが、ハッとするような話もあった。 彼と私の「カレーとは何ぞや問答」のあらましは以下のとおりだ。 1)カレーとは、さまざまな香辛料で調味した、インド風料理の総称である。カレーの黄色はウコン(どうか誤植しないで!)であり、シナモン、チリ、パプリカ、黒コショウ、ターメリック、生唐辛子、ジンジャーなど、何十種類もある。色は、黄色だけでなく、白、赤、緑もある。 2)「カレー」の命名はインド人ではない。ラジ君はポルトガル人だという。十五世紀バスコ・ダ・ガマがやってきて、香料のにおいに誘われて、原住民に何を食っているのかと聞いた。「カリ」だといった、カリとは、“ご飯”つまり、食事一般のことだが、ポルトガル人は、香辛料を使った「カリ」だと勘違いした? 3)「カレー」、つまり香辛料なかりせば、インドは、英国の植民地にならなかったであろう。これは、ラジ君に言って聞かせた“私の仮説”である。唐辛子はカリブ海が原産で近世にインドに入ったものだが、その他の香辛料はインドが原産。とくに中世ヨーロッパでは、肉の香辛料であり、かつ保存料、そして解毒剤であった黒コショウは超貴重品だった。金一オンスと黒コショウ一オンスは同価値だった。中世にはアラブ商人が、インドから地中海諸国への香辛料貿易を一手に引き受け、ボロ儲けをしていた。そこでヨーロッパ諸国は、アラビアを通過せずに、インドに到達する航路の開発にやっきとなった。それが、インド植民地化のきっかけではなかったか? 「新宿中村屋」の由来 ラジ君に「ビールを買ってきて」と頼んだ。インドのレストランは、高級ホテル以外は、アルコールを出さない。イスラム教は禁酒だし、ヒンドゥー教徒も酒をほとんど飲まない。彼は缶ビールをどこからか仕入れてきた。(一本三ドル、インドは酒が高い)。ラジ君は「店の主人にワイロをやってきます」という。ほどなくコーラの大型紙コップに、生ぬるいビールを入れてボーイがもってきた。だが、酒、いやビールがいっこうに、はかどらないのだ。黄、白、緑、ベジタリアン向きのホウレン草カレー(これは格段の美味である)も含めて、五皿の料理をあらまし平らげたのだが、ビールは半分以上残ってしまった。ここでまた、ひとつの発見。インド人が酒を飲まないのは、宗教上の理由もさることながら、そもそもカレーと酒は合わないからだろう。 この日の英字新聞(The Times of India)に、「インド独立の志士で、一九四五年、台湾で事故死をとげたスバス・チャンドラ・ボース氏の骨を日本の寺からインドに移すよう、インド政府要請へ」との記事が出ていた。ラジ君の解説では、政権党のBJP(インド人民党)は、マハトマ・ガンジー(国民会議派)よりも、彼と路線を異にしたチャンドラ・ボースを尊敬しているとのこと。 「チャンドラ・ボースのパトロンは、日本の有名なカレーレストランの主人で、彼の亡命生活を支え、奥さんは日本人だった」とラジ君はつけ加えた。「ハテ? それは初耳だ」。私は半信半疑だった。 帰国後、中村屋の新宿本店に出かけ真相が判明した。中村屋のレジにチラシが置いてあった。いわく「明治年間、インド独立の志士で、中村屋の創業者相馬家の女婿でもあったビハリー・ボースが伝えた本場の味、インド・カリーは……」とあった。同じインド独立の志士ではあったが、「ボース違い」だったのである。ところで中村屋の“インド・カリー”。有名になるだけの値打ちはあるのだろう。でも、私の試したインドのそれと似てはいるが、やはり異なる料理であった。
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