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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: パリ号の優雅な航海  
コラム名:    
出版物名: 新潮  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2000/01  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私が船舶信号管理(株式会社)の木野崎光洋です。初めまして、ようこそ、お越しくださいました。いえいえ、邪魔だなんてことは全くありません。どうぞ、船内は足元が悪いところばかりですから、くれぐれもお気をつけください。ことに階段は急ですから。
 作家の方の取材は昔、N先生のお手伝いをしたことがありますので、少しは知っているつもりです。もっともその時は、昼間は一応何でも、ごらんになるのですが、その時だって「ほう」とか「へえ」とか言いながらノート一つ取られるわけじゃない。そして夜になると、酒盛りが始まって、私はお相手だけしたような形になってしまったので、一時はどうなることかと思いました。
 私も飲むのは嫌いじゃありませんからいいんですが、しかし心の中では、この調子じゃ、小説の方はもしかするとだめなんじゃないか。おもしろくなくてもう書かない気になっておられるのではないか、と想像していました。
 しかし二、三カ月経って雑誌を送って頂いた時には驚きました。あのぐでんぐてんのお酒の中でも、ちゃんと要点はきちんと「取って」おられるんですな。ですから……はい、全くお構いはいたしません。私も自分の出番には働かねばなりませんから、どうぞお一人でご自由に船内をお歩きください。
 私がパリ号で仕事をしているというと、中には世界一周の豪華客船で観光旅行していると勘違いする人もいましてね。「パリって、あのパリのことでしょう」って言うんですよ。いやインドネシア語で「南十字星」のことですって説明すると、いよいよ素敵な船だと思われるんです。ところがごらんのようにこういうオンボロ船で、まあペンキの厚化粧で何とかごまかしている年増の娼婦のようなもんです。何しろ一九七八年の建造ですから、御年二十一歳。しかし日本人が管理していたら、こんなには老けさせませんよ。やはり管理が悪いんです。船の種類としては「ブイ・レイング・ヴェッセル」「ブイ・テンダー」です。つまり浮標敷設船、浮標管理船、重量はGRトンで七百六十四トンです。
 船長以下、すべてインドネシア人です。出港しましたら、ゆっくりご紹介します。この、バタムのバツアンバー港を午前十一時半頃出港して、ドリアン・ブイには約二時間後に着く予定です。ブイの恰好がドリアンに似ているからじゃないんです。地名だと聞いています。
 バタムには、もう少しゆっくりなされるとよかったですね。ここは3Bの町と言われてるんです。鉛筆の芯の濃さじゃありません。ブグール=お粥、ブナケン=海のダイビング、ビビル=くちびる、つまり美しい娘たち、の三つが売り物だということです。そうですか、海老やイカなんか海鮮をたっぷり入れたお粥はもう召し上がったことがありますか。
 マラッカ・シンガポール海峡約一千キロというのは、ほんとうに大切で、しかも船の側から言えば厄介な場所です。そこは海の銀座通り、と言えば聞こえはいいですけど、日本の海上輸送の死活を制する所です。ご承知の通り、この狭い海峡で事故が起きたら、日本へ送られて来る物資はたちどころに滞りますからね。もちろん回り道はできます。ただ、その場合、厳しく価格に跳ね返る。エビも蕎麦粉も灯油も高くなる。たまったもんじゃありません。
 日本はもう三十年以上も金を出して、この海峡一千キロの航路標識の保全をやって来たんです。百億円以上はかかってますが、それを台湾にも韓国にも中国にも恩着せがましいことは言ったことがない。中国なんか、決してありがとう、と言う国じゃないでしょうしね。しかしそれはいいんですよ。
 マラッカ・シンガポール海峡の一番狭い所は幅わずか四キロの間に東行と西行のレーンを作って船をさばいていますが、対地速度十二ノットの速度制限がありますから、海賊がたやすく乗り込んで来られるんです。
 こないだなんか六万九千トンの船に夜、海賊が乗り込んで来て、乗組員のポケットから金を抜いたり、ラジカセを盗んで行ったりしたんです。六万九千トンの船だって、積み荷をたくさん積んでいれば、舷側はうんと低く、そう二、三メートルになりますからね。手鉤のついたロープ投げ上げて手すりに引っかけて、それを忍者みたいに伝ってするすると乗り込んで来られるんです。
 今日、この船が海賊に襲われる可能性ですか? 作家の方だから、そうなった方がおもしろいんでしょうけど、何しろ我がパリ号は、名だたるボロ船の上、一応インドネシアの海運総局の船だっていうことが、このシルバー・グレイの船体の色でわかってますからね。どうってことのない地味な船ですけど、甲板がまっ平らで、見る奴が見れば特殊な政府の作業船だってことはわかります。そういう船にはまず金がないこともわかってるから、襲う気にはならんでしょうね。
 そろそろ船が出ますから、出方をごらんになった方がいいと思いますよ。何しろ日本だったら、係留索一つ繋ぐにも外すにも、専門の人がいて金取られるんですけど、ここは出て行く船の船員が走り回ってやるんですから。あれが本船のクォーター・マスターです。ほらね。まず船首近くの(係留索)を外したでしょう。それから船尾のを……ああして取って……それから真ん中の……ギャング・ウェイ(舷門)の近くのを……外して……それから、自分で飛び乗った!あのやり方だって何とかやって行けるんですよ。
 今日、そちらのために部屋を空けてくれたのは、機関長です。キャビンは船橋の真下ですから、日が暮れた後だけ、遮光カーテンを引いてください。ご承知と思いますが、船橋で当直する者は暗闇に眼を馴らしておかないと、前方が見えないんです。
 部屋の金網戸がひどく錆びててお気持ち悪いでしょうけど、多分、それだけに蚊が入ることはないと思います。ゴキブリはまあ、出てきたらお許しください。お客を乗せる、と言ったら、大々的に薫蒸はしてたようですけど、ゴキブリにしたら、長年住み馴れた我が家ですからね。そうそう簡単には出て行きたくないでしょうよ。後部のアッピー・デッキに何やらむさ苦しいシャツなどが干したままになっていますけれど、それはお許しください。これでも一応「長声三発」鳴らして、出て行くんですよ。
 それでは一応船橋にご案内しときましょうか。船橋にでもどこでも、いつでもご自由にいらしてかまいません。許可が取ってありますから。この船はおかしな風習で、船橋の入口でみんなはいているゴム草履を脱ぐんです。こんなおかしな船は、日本にはないでしょうけど……いやお客さんはお脱ぎにならなくていいんです。しかし我々日本人としては、この習慣はちょっと理解できますな。お座敷に入れてもらう時には、皆履きもんを脱ぎますからね。
 こちらが船長です。「ようこそ、おいでくださいました」と言ってます。彼だけが船橋の中でも運動靴を履いてるでしょう。やっぱり格があるんですわ。あっちにおろしたてのブルーの靴下履いてるのがクォーター・マスターです。お客さんが便乗するっていうんで、新品の靴下を下ろしたんですよ。
 それで先刻から気にしておられたこの船の甲板ですけど、手すりも何もなくて恐ろしいとお感じになって当然です。あそこに、今日の午後手入れするブイ(浮標)を引き上げて作業をするんですから、手すりがあると邪魔になるんです。
 甲板の端っこにしゃがむと、手すりも何もないから、海の水が簡単に触れるくらいすぐそこにあって落ちそうで気味が悪いでしょう。お気をつけください。一人で、船首の方になど行かれない方がいいですよ。
 この船の主エンジンは、新潟で作っているんです。船全体も日本の無償援助でインドネシアに贈ったものです。さっきも言いましたように一九七八年製で、もう二十年以上も経ってますけど、日本人が扱っていたら、こんなには古びさせませんよ。どうしてこんなに錆びだらけにしてしまいましたかねえ。あのボートを吊っているダヴィットの先の部分なんか、あれはほとんどペンキでごまかしているだけで、強度がどこ迄あるか、まことに心もとないものです。ほんとのことを言うと、今にも救命ボートが落ちて来そうで、あの下には行きたくないくらいですよ。
 さて今日の予定をお話しますと……そうそうマラッカ・シンガポール海峡には全部で五十一の航路標識があるんです。やかましく言いますと、灯標、灯台(灯浮標、浮体式灯標、とありまして、これがインドネシア、シンガポール、マレーシアの三国にまたがっています。みんな日本が作ったものです。
 地図でお見せしますと、シンガポールの真南に当たるこの海域がフィリップ・チャンネルで、最近海賊が出没する名所になっています。どうして海賊が狙うかというと、ここで東行、西行共に、船が航路を転進するんで、必然的に速度を落とすんです。その時が彼らの乗り込む好機なんですね。
 海賊対策ですか? インドネシア側はほとんど何もする気がないでしょう。何しろインドネシアには、海軍、沿岸警備艇を含めても、高速艇なんて十隻もない。それなのに島は一万七千五百五、海岸線は約七万キロでしたかね、途方もない長さです。海賊船は漁船を装って獲物が通りかかるのを待っている訳だから、ことが起きるまでどうにもできない。起きてもインドネシアの言い分では、向こうはその辺の村のコソ泥ではなくて組織化されたギャングの船で高速エンジンを備えているし、すぐ島陰に逃げ込んでしまうから、とても手が出せるもんじゃない、と言うんです。
 それでルートの話ですが、午後、パリ号はこのフィリップ・チャンネルを通りながら、ここにあるドリアン灯浮標まで行きます。ああ、今ちょうど、シンガポール無線局から、ドリアン灯浮標に対する警告が入って来ていますけど……この紙のこの部分をごらんください。ほら、ドリアン灯浮標は「ダメージド・アンド・アウト・オブ・ポジション」とありますから、灯浮標自体が壊れているだけじゃなくて、位置も狂っているというわけですな。
 甲板上のあの木枠の中ですか、あの中には大工道具が入ってます。インドネシア側は三十八人乗ってますが、皆命じられたことは喜んでやりますよ。何でもやります。できないのは子供を作ることくらいかな。
 もちろん盗みはあります。この船じゃほとんどありませんが、町ならどこでも何でも盗みますよ。マンホールの蓋だって盗んで、目方で売るんですから、危なくて仕方ないですよね。海上の浮標だってご心配のように盗まれますけどね、インドネシア人たちは頭いいんですよ。
 たとえば灯標に百七個の電球があるとします……煩悩と同じ数じゃないでしょう。煩悩は百八ですから。百七個の電球のうち、彼らは二個くらい盗むんです。すると少しだけ、気のせいくらい暗くなる。配線もちゃんと繋いでおくから、機能的には動いているんです。真っ暗にすると、自分たちも困りますからね。
 泥棒も気の毒なんですよ。とにかく貧しいですからね。本船の乗り組み員だって、月給で日本円の七千円ももらえばいい方でしょう。ただで食扶持だけ、っていうのもいるかもしれません。それで家族や孤児になった甥と姪を養ったりで十人も食わせているのだっているんです。その上お袋さんが病気したりしたら、もう生きて行くだけでやっとですからね。
 そうですね。今は南西の風の時期ですからスマトラ島の陰はすべて波穏やかなんですよ。でも小さな漁船がたくさんいるでしょう。あの連中はこちらが避けるものと決めていていっこうに自分の方からは退避しませんからね。
 あそこに赤と白の陽気な色に塗り分けた灯標が見えるでしょう。あれはバッベルハンティ浮標と言うんですけど、苦難の灯標でしてね。コンクリートの型枠が固まらないうちに大型船の波で壊されたんですよ。
 僕はいつのまにか船を人間になぞらえて見る癖がついていたんですね。今前に灰色のコンテナー船がいるでしょう。ジョン(2)号って書いてありますけどね。読めませんか。あの船、本船前を斜めに大急ぎで横切ってから、今度は並んで止まってる。いったい何を考えてるのかな。人間にもよくああいうのがいますよ。せかせか追い越して行って、途中で煙草吸って立ち止まったりしてる。ああいう人って、何を思ってるのか、知りたいなんて思うんですよ。
 今並んで走ってるのはリベリア船籍の「ハーモニイ」というタンカーですけどね。タグ・ボートで押した痕をひどい補強の仕方で治してあるんですよ。火傷の痕をうまく治せなかった娘みたいで痛々しいでしょう。
 さて、そろそろ見えて来たようですよ。あそこに、黄色と黒の灯浮標にDRと書いてあるのがドリアンです。ドリアンのてっぺんに、黒い三角板が下向きに二つついていますが、あれがこの地点の南側を通りなさいという印です。本船の方は、メインマストに黒い玉二つ、団子三兄弟じゃなくて二兄弟みたいなのを上げますけど、それは「本船は航行の自由を有せず」ということで、つまり「作業中で動けません」ということです。
 
 私はそれからしばらくの間、一人でアッパー・デッキから、立ち働く人たちの姿を見ることにした。木野崎が、そのために乗り込んでいるドリアン灯浮標の補修の指導を始めたので、私は一人で「高みの見物」をすることになったのである。
 陸の上でもガードレールにぶち当たる車がいくらでもいるように、マラッカ・シンガポール海峡の浮標や灯浮標は、頻繁に航行する船に、陸上よりもっと激しくぶつけられた。木野崎が言うには、あまりにひどく壊されているので、修理するより新設する方が安くつく場合も多かった。
「新設っていうと幾らくらいかかるんですか」
 と私は聞いた。もちろんそれは浮標や灯浮標の大きさによっても違ったが、三千万円くらいかかるものも決して珍しくはなかった。
 船上で働いている男たちは、日本のように統一された服装はしていなかった。銜え煙草で自分の出番を待っている男もいた。オレンジ色の保安帽は、あみだに頭に載せている男もいたし、全く被っていないのもいた。作業服もてんでんばらばらだった。シャツの後にひらがなで自分の名前を書いて得意そうに着ている男がいるのをみると、技術者としてインドネシア語もうまい木野崎は、十分に彼らの信用と尊敬を集めているように見えた。
 ドリアン灯浮標は羽をもがれて浮いていた。譬喩ではない。灯浮標は、遠くからでもその存在を目立たせるために黄色と黒に塗り分けた簀子状の羽を四方に付けているのだが、そのうちの二枚は通りがかりの船にぶつけられたはずみに取れてしまったらしく、羽をもがれたトンボのように体が一回り小さく見えた。
 人々はまず作業用のボートを右舷から下ろした。それを操る男は裸足だったが、彼がどうして裸足かはすぐわかった。灯浮標の直径五メートルはありそうな巨大な独楽か空飛ぶ円盤のような鋼鉄製のフロートごとドリアンをバリ号の甲板上に上げる時、裸足でなければ、彼は滑ってしまうに違いなかった。
 男たちは、甲板上に灯浮標を横たえるまでに、ほとんど日本人と同じかけ声をかけた。「一、二の三!」というところで、彼らは「サトゥ、ドゥア、ティガ!」と声を合わせたのである。
 甲板の上に横たえられたドリアンは、三つくらいの「病状」に苦しんでいた。フロートの部分は赤錆や苔や貝殻に取りつかれていた。一枚が優に四メートルはありそうな四枚の羽のうちの二枚は取れてなくなっていた。そしてもっとも重篤な病は、てっぺんについている銀色のレーコンが、外見には何一つ損傷もないのに反応しなくなっていることだった。レーコンというのはレーダー・ビーコンの略で、船舶からの電波も受け、自分からも電波を出す機能を持っていた。しかしそのレーコンが沈黙してしまっているために、シンガポール無線局はドリアンを「ダメージド」(損傷を受けている)と判定したのであった。
 正確には何という貝殻なのか、動植物に知識のうとい私にはわからなかったが、素人ふうに言うとフジツボのようなカキガラのような貝殻はフロートにしつこく取りついていた。男たちはフロートの周囲を囲んで、それを長い柄のついたへらのようなもので掻き落としたり、強いジェット水流で洗い流したり、甲斐甲斐しく働いていた。かつて私が東南アジアの土木の現場でさんざん見たように、一人が働けば他の一人はそれをにやにやしながら手を休めて眺めている、という小ずるい空気は全くなかった。
 錨には青い魚網の切れはしまでひっかかっていた。私は彼らがそれをどうするか、と思って見つめていた。彼らはそれを取り除きはしたが、再びいとも無造作に海の中に捨てた。私はいつか日本の船では、一度甲板にあげたすべてのものは、貝殻といえども海中に捨てないのが原則だ、と聞いた話を思い出していた。フジツボもムール貝も海へは返されなかった。
 一組の男たちは、ドリアンが失った二枚の羽の代わりに新しいのを取りつける作業をしていた。羽は経費を節約するために、どの浮標にも共通に使えるような無地の規格品になっていて、ただそれぞれの浮標の特徴を示す色。ペンキを塗ればいいだけのように見えた。男たちはドリアンの登録色である黄と黒のうち、下半分の黒だけを塗ったが、なぜか黄色は塗らないままに、羽を取りつけた。
 木野崎が連れて来ていたシンガポール人の電気技師は、何とかしてレーコンをその場で直そうとしていたが、長い協議の末、無理だとわかったらしく、やがてドリアン灯浮標は貝殻を取り除かれてかるがるとした表情になったフロートと共に、再び海に戻された。
 木野崎が作業服を着替えて、私のいるデッキに戻って来たのは、それから三十分ほど後のことであった。
 
 直らなかったレーコンですか? あれはシンガポールの代理店に出して直させます。またつけに来なきゃなりませんが、まあ、一、二ヵ月のうちには、きちんとなります。
 おっしゃるように、確かにインドネシア人たちはよくやってます。彼らなりに一生懸命です。しかし時々溜め息もでますな。今日もドリアンの羽をつけはしましたが、黄色のペンキを積んでないんです。ドリアンの修理に来たこと、羽がやられていることは事前に通告されてるんです。だから当然、ここでペンキを塗らなきゃならないことも仕事の予定に入ってた。それでも準備ができない。
 それとあなたは貝殼落としをよくやっている、と言われましたが、ほんとは、あのフロートには必ず防錆剤を塗って海に戻さなきゃいけない。それも積んでなかった。初めての仕事じゃないんだ。もう何度同じことをしているか、ですよ。
 ええ、もうこれで一応今日の僕の仕事は終りです。ですから飲んでもかまわないんです。そうだ、お持ち下さったウィスキーを飲むことにしましょうか。このアッパーデッキの夕風はすばらしいですからね。
 
 木野崎はそう言うと、まもなくグラスとプラスチックの水壜とウィスキーを下げて戻って来た。
 
 氷はあるにはあるんですが、元の水があまり信用できませんから、水割でご勘弁ください。ドリアン灯浮標からスマトラのドマイまでは十七時間です。
 それから今、緊急電が入ってました。ざっと内容を言いますと……それでよろしいですか……汽船「ヴァナラシ号」から、人が海に落ちたというんです。グリニッチ標準時で書いていますが、計算すると、今から二時間半くらい前です。位置は南緯四度四十九分九秒、東経百十一度三十三分四秒。「その地域を通過するすべての船舶は、厳重なる監視、発見報告、必要なる援助を与えられたし」とあるな。
 どういう人かわからない。喧嘩して突き落とされたか、酒飲んで落ちたか、わかりませんが、まあ救いあげられる可能性はあまりないでしょうね。こういうことに関して、人間というのは、ほとんど無力なんです。
 今まで僕は、ずっとこの手の仕事やって来て、人には社会のためになるいいお仕事ですね、あなたはほんとうにマラッカ・シンガポール海峡一千キロに灯を灯し続けて来たでしょう、なんてね、クラブのママからだって歯が浮くような褒め言葉聞かされたこともあるんですよ。おかげでその時、歯を食い縛ったもんで、歯が欠けましてね、これほんとです。治療費にちょっと金かかったんですよ。
 しかし現実の僕はどうだったかと言うと、全くなすすべもなく手を拱いて、身近な人をほったらかしにしてきたんです。今こうしている間にも、船から落ちた男はどうしているか、僕たちにどうにもできないのと同じことです。
 その第一は、自分の子です。僕たち夫婦の最初の男の子です。女房が妊娠の初期に風疹にかかりました。それでもしかすると、体に奇形のある子が生まれるかも知れない、というんで、羊水検査とやらをしたんです。
 僕はその時、そんな検査をしてどうなる、とは思ったんですけどね。奇形のある子なら堕胎すのか。そんなことはできないじゃないか。体の悪い子なら、尚のことかわいがって育ててやろうじゃないか、と思ったんです。結果は、やはり恐れていた通りでした。
 出産の時には、僕は家にいました。眼もおかしいんじゃないか、と言われていましたが、しかしやはり先天的に弱い子でした。すぐ呼吸困難に陥って、入院して、チアノーゼが出て、隔離されているうちに、僕の出張の日が来ました。しかし僕は、なぜか帰って来ればずっと面倒を見てやれると思っていたんです。たった三十五日目に、その子が死ぬとは思ってもみなかったんです。
 ばかな話ですが、僕はただその子を抱いてやれなかったのが辛くて辛くてたまらなかった。彼が青春を味わわなかったとか、女性を知らずに死んだのがかわいそうだなんてとこまで思いいたらなかった。ただ抱いてやりたかった。それができなかったんです。
 女房は、自分が病気をしたのが悪かった。その上僕が帰るまで息子を生かしておけなくてごめんなさい、と謝った。そんな謝り方って全く、……どう言ったらいいかな……謝ることじゃない。ただ運命というか人生というか、僕はあなたと違って表現力がないから、何と言っていいかわからない。
 そのうちに母が老いてきました。僕は兄と二人兄弟でしてね。兄は秀才で大学教授でしたが、五年前に四十二歳で癌で死んだんです。母は兄一家と暮らしていたんですが、兄嫁とあまりうまく行っていなかったんで、僕のところへ来ることになったんです。
 決定的な問題は、僕がこうして始終家にいないことです。母はまだ七十三なんですけど、脳に萎縮が見られるようになった。動作がのろのろして、夜中にトイレがどこだかわからない時もある。兄が今でも生きている、と言うんです。よくある話でしょうけど、僕はそういううっとうしさから逃げ出すように仕事に出てしまう。女房は、しかし逃げ場がない。
 滑稽でしょう。マラッカ・シンガポール海峡一千キロの安全を計ることはやっても、自分の家庭一つどうにもできない。娘は一人いるんですが、アメリカの大学に行ってますから、惚けた祖母を見ることも、母親の愚痴を聞いてやることもできない。僕はまたこうして何一つできないんです。
 そして今はまた、小学校からの親友が一人死にかけている。
 こいつは、学校もできない。家も貧しかった。母親も子供二人を捨てて男と逃げた。父親はやけになって、おかしな女を引き込んだ、という近頃じゃ珍しい家庭です。
 僕はまあ、一応できる生徒でした。家は金持ちじゃありませんが、ほどほどのマンション住まいです。母親が家で英語を教えてました。父親も会社で温厚な人物だというので、定年まで優遇してもらった。
 その友達は、いろいろな仕事をしている間に、めちゃくちゃな食生活をしたんでしょうね。まず糖尿病になって、それから眼が大分いけなくなって、足は片足を膝下から切断した。その前から慢性腎炎になって透析をしなければならないようになった。透析は週に四回ですからね。もうどこへも行けない。
 彼は見舞いに行くと言うんですよ。
「木野崎君はいいね。外国へ行けて、何より海へ出られるんだからね」。
 僕はそれで心臓がえぐられそうになる。奴にはそれができなくて、僕にはそれができる、というのは何という残酷なことだろう、と思う。
 でもそいつが、嫉妬とか恨みとかそんな気配もなく言うんです。
 僕はこないだ酒屋の親父に威張ってやった。僕の親友は、マラッカ・シンガポール海峡一千キロの灯台を全部灯してるんだぞ、って。お前には、そういう友達はいないだろう、って。そんなことを言われると、僕は……ほんとに、どう言っていいかわからなくなっちゃう。僕は実は荒っぽい航海なんか、したことがないんですよ。いつもこの波穏やかな海峡にいて、会う人と言ったら「今日はいい天気ですね」というような人ばかりだった。そして僕自身、少し酔うと、今みたいに徴かに眠くなって、麻薬に酔ってるみたいだから、もう人生の苦みなんて、全く感じなくなっている。僕は彼が死にかかっているというのに、何一つしてやれないぞ、と感じて平気なんです。海峡に灯を灯す手伝いくらいは少々したかもしれないけど、友達の傍についていてやりもしませんでしたしね。
 僕はほんとうに、冷静、冷酷なんですよ。朝、このオンボロ船で目覚めると、僕の船室からはまず、船首にあるレーダー・レフレクターに朝陽がさしてきらきら光るんです。そして船窓を開ければ実に爽やかな風が吹いて通りすぎるでしょう。だから僕は浮かれたように思うんです。
「地球はまだ健全だあね。憎しみ、死刑、殺し合い、何があってもなお、健全だあね」
 って。それから、
「行き交う船のほとんどがオンボロ船だ。人生を感じさせるね」
 ですよ。体裁いい話だけど、冗談じゃあないんだ。友達は死にかかっているのにね。
 どうです、朝じゃないけど、あの金色に輝く夕陽が落ちて行く先がカリムン島です。十八時十二分か。あいつはまだ生きてるかなあ。
 



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