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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 子供の人権?教育現場に民主主義は必要か  
コラム名: 自分の顔相手の顔 227  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/04/05  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   そんなことを言うとまた叱られるからできるだけ黙っていたのだが、「子供の人権」という概念くらい薄気味の悪いものはない。私の母の時代にそんな言葉は聞いたこともなかった。しかし私たちは素朴に可愛がられ、叱られ、先生は怖くて尊敬するものだと教えられた。子供は可能性は秘めているが、未熟で知識も少ないのだから、大人や先生が完全な主導権を取って教えるのが当然である。
 「卒業式は誰のためのものですか」
 と先頃、東京都田無市の西原小学校で、六年生たちが校長室を訪れて言ったという。
 卒業式は当然卒業生のためのものだが、そう答えるとそれなら式次第も自分たちで決めさせろ、となるのだろう。お雛祭りはその家の娘のためのものだが、雛を買うのも祭りのやり方を決めるのも親なのだ。
 小さい時は年長者が決めたことをやるのが教育だ。というと、それは軍国主義に繋がるとか、人権侵害だとか、このごろは話がすぐ常識の範囲を逸脱するから疲れる。
 教育というものは、先生は文字通り先達で、生徒はそれに従うものだ、というはっきりした立場がないと、成立しないのである。あらゆる芸術、学問、技術の習得はすべてそうだ。今はやりの平等、人権、民主主義などと言った概念では全く解決しない。
 しかし偉いと言ってもただ威張るのではない。先輩は後輩を慈(いつく)しむ。教師は生徒のことを心に深く思って、楽しい会話もあるべきだ。しかし立場の差は歴然としていて決して平等ではない。教え、教えられる、という行為そのものが、上から下への流れを持っているのだ。教育の現場には、徳や忍耐や仁慈や寛容や尊敬や愛などというものは非常に大切だが、民主主義などの必要性は恐ろしく低い。
 もちろんあらゆる人が、そのようにして教えられたりしつけられたりすることに、うんざりして成長する。教師や先輩の言うことに瞬間的憎悪を抱いたことのない弟子などないだろう。しかしそのようにして基本を押しつけられてこそ、彼らは長じて自分の世界を作ることも可能になるのである。
 社会に出れば自分の思うようにならないことだらけだ。校長が卒業式で、常識の範囲内で、式次第を決めることくらいにいちいち反撥していて、どうして社会に出て柔軟に生きていけるか。社会では、自分とは考えの違う人ばかりなのだ。そこでは折り合い、心ならずも譲ることでようやく和を保ち、自分の本当の仕事や意志を貫徹する。
 権利というものは必ず他人に対する義務と自分に対する責任を伴う。しかし子供はどんな義務も責任も負うことは不可能だ、と裁判が証明している。子供の権利という言葉が特に必要なのは、子供に食べさせ教育し強制労働から守ること、のできない社会を改変させる時だけで、日本では子供には深い愛は特別に無限に必要だが、子供の権利などうたう必要はないのである。
 



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