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ソ連の軛から離れる この国に入るには、かなり面倒な手法がいると聞いたので、ルーマニア語?英語の通訳同伴で、ブカレストのモルドバ大使館に行った。モルドバで開かれる黒海沿岸環境会議の招請状を提出し、職業欄に「エコロジスト」と書いたのが、功を奏したらしい。女領事と通訳を買って出てくれた現地の環境学者である工学博士氏との間に、何やらルーマニア語でやりとりがあったが、彼女は「昼食をすましていらっしゃい。それまでに特急で書類を作っておく」と言っているという。旧社会主義国の役人は、無愛想で威張るしか能がないはずなのに、中年で結構美人の領事女史が、ニッコリと手を差し出し、「アリガート。サヨナーラ」と言ったのには二度びっくりした。 モルドバ国。人口四百四十万人、面積三万三千七百平方キロ、といってもピンと来ないだろうが、面積はほとんど同じ緯度に位置する北海道の四〇%しかない小国だ。でも人口密度は北海道より高い。旧ソ連邦十五カ国のひとつだったが、クレムリンの配下の国としては人口稠密国のひとつだった。 ヨーロッパの地図で、この国を見つけるには、私には虫眼鏡がいる。大国ウクライナとルーマニアにはさまれ、ダニューブ川の支流が流れているのだが、黒海への出口はウクライナにふさがれている。いかにも自然の地形にふさわしくない国境線なのだ。 この国の過去は、人為的かつ悲劇的である。一九九一年、ペルリンの壁崩壊の余波で独立、“ソ連の軛”から離れたが、いまだに多数派のルーマニア系住民とロシア系住民との間には人種的緊張が続いている。もともとこの地域はオスマン・トルコとロシアのロマノフ王朝の古戦場だった。この国の東側に流れるドニエステル川の右岸の細長い地域が帝政ロシアの領域で、残りの大部分は当時トルコの配下にあったルーマニアに属し、そして南側のごくわずかな土地には、少数のトルコ人が住んでいた。それで一応、民族の住み分けはできていたのだ。ところが、一九四〇年、ソ連のスターリンは覇権をこの地に及ぼすべく、ドイツのヒトラーと両覇権国の権力の及ぶ境界線を引く交渉を行った。 モロトフ、リッペントロップ両国外相との間で条約が締結され、この地はソ連領となり、今日のモルドバ国の原型が誕生した。ソ連時代のモルドバは苦渋に満ちた経験が多い。首都キシニョフ(CHISINAU)で、私を迎えてくれたNGOの環境団体をひきいる国会議員のアレク・レニータ氏の記憶は悲惨であった。 「四一年六月十三日。独ソ戦開戦前夜、祖父と祖母が官憲に捕らわれ連れ去られた。ルーマニア人の五百の村から十人ずつ指名され、シベリア送りになったのだ。知識人は危険分子とみなされており、民族の心を骨抜きにするためだった。はっきりした統計はないが、第二次大戦でソ連が勝利した後、合計で三十万人のルーマニア系住民が強制移動させられた。カザフスタンに送り込まれた人もいる。シベリア送りになった人で、独立後、モルドバの故郷に帰還できた人は、一家族しかいない。私も数年前、シベリアを訪れたが、祖父母の消息の手がかりはなかった。厳冬のなかで死に絶えてしまったのだろう。モルドバは、温暖で、肥沃な母なる大地をもっているからね……」。彼はルーマニア語?英語の通訳を介してそう言った。 占領地区の強制移住は、スターリンのみならず、帝国の支配者の常套手段なのだ。ハプスブルク帝国も、民族の被併合地域で、平穏に棲み分けをしていたいくつかの民族をバラバラに強制移住させている。反乱を未然に防止し帝国の威令を隅々まで浸透させるためだ。だから旧ハプスブルク家の領土だった中央ヨーロッパの民族分布は、今でもモザイクの模様になっている。民族国家として独立しようと試みても人種の地理的分布が複雑でうまくいかないケースが多い。旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナやコソボの今日の紛争の遠因はそのへんにもあるのだ。 ソ連は、モルドバを十五の連邦共和国のひとつ加え、徹底したソ連化に努めた。経済はCOMECONの分業体制に組み込まれ、豊穣な農業地に特化し、とりわけ、ブドウとヒマワリのソ連邦随一の生産国になった。モルドバ・ワインが西側のマニアの間で知られるようになったのは七〇年代に入ってからだが、全ソ連のワイン消費量の三〇%をこの小国が供給していた。 九一年の独立後、公用語をロシア語からルーマニア語に切り替えたので、首都キシニョフの街にはキリール文字の看板はほとんど見られない。急速にロシア離れをしたいのはやまやまだが、NATO加盟は希望せず中立政策をとっている。というのはエネルギーの九五%以上を、ウクライナ経由でロシアの天然ガスと石油に依存しているからだ。モルドバの泣きどころは、この点にある。この国の環境大臣カプセレア博士に「原発一基で、エネルギーの独立が達成されるではないか」と質問したら、「地政学的にも環境学的にも難かしいテーマなんだ」と苦笑するのみだった。緑と水と大気の保全は、この国の安全保障上の重要な論点になっている。だから環境大臣は地位が高く大統領の腹心であり、かつ国際的センスのある知識人が就任するという(この人はモルドバ人には珍しく英語が堪能だ)。ブカレストの大使館で、職業欄に「エコロジスト」と書いたら、超特急でビザが発給されたのは、そのせいだったかもしれない。 モルドバは世界では知られざるワイン生産国なのだ。前出のアレク・レニータ・国会議員やボベイカ・環境副大臣、それにパランキアン・農業副大臣が遠来の客を招待して郊外のワインの名所で「ワインパーティ」をやろうといってくれた。こちら側はブカレストから同行のエコロジスト・チョボタ博士、トルコ環境財団のウラル理事長、アリ理事、そして日本財団国際部の石井靖乃君、それに私だ。 フランスのボルドー村界隈の、ブドウ畑の丘の上の古城のワインセラー(ワインの貯蔵庫)の光景を想像していたのだが、キシニョフから二十五キロ、連れていかれたのはコジュスナ(COJUSNA)という村にある鉱山の跡だった。ジープの先導で、車のライトを点灯し、曲がりくねった坑道を五分ほど行ったところに、レストランがあった。地下七十八メートだという。しかもこの廃鉱の坑道は枝状になっており、のべ五十三キロは、ワインセラーとして使われていると聞いて肝をつぶした。 付近に二、三十個所ある中小ワイナリーの酒を樽詰めにして保存している。この鉱山は、建築用の石を採掘していたのだが、二十四年前からワインセラーに変身したのだという。一年にボトルに換算して千五百万本のワインを貯蔵し、ほとんどが輸出用とのことだ。「十五年分の貯蔵があるから、キシニョフ市民がここに籠城しても、二年は大丈夫だな。なに? 水のかわりにワインを飲めばいい」と農林副大臣氏がいう。
「開けゴマ」で岩戸が開く レストランは、“石の岩戸”の奥にあり、「アリババと盗賊」の隠れ家のようだ。トルコ人のアリ氏にそういったら、「一緒にOPEN THE SESAME(開けゴマ)と呪文を唱えようよ」と素早く反応してきた。すると、岩戸が音もなく開く。ジョークを解するモルドバ政府高官が、すかさず電気仕掛けのボタンを押したのだ。 坑道の湿度は、一年中十四℃、プラス・マイナス一℃、レストランは夏冬十八℃だという。ご自慢の銘柄が十四種類、テーブルに並ぶ。ルーマニア語のローマ字と、ロシア語のキリール文字のボトルがある。独立以前のビンテージはロシア文字なのだ。赤ワインではCABERNETが絶品だった。八六年度の「赤ワインの王様」なるものを試したら、ボルドーの赤ワインの王様と、そっくりの色合いと味と香りなのにはびっくりした。白ワインでは、SOUVIGNON BLANCがウマイ。ちょっと口をつけては、ガラス製の容器に捨てて次を試すのだから、豪勢なパーティだ。 上質のワインの上位から三〇%はフランスに輸出している、と太ったワインマンのおじさんがいう。「では下級品は」とだれかが聞いたら、解説がふるっている。「もちろんロシアさ。奴らはワインをブドウジュースだと心得ている。だからウオッカを足して飲むんだ。ワインの風味をわざわざ消してね。そういう手合いには、格安品で十分さ」と軽蔑した口調でいう。一同「ダー・ダー(然り、然り)」とうれしそうだ。客人を除くとパーティの出席者は全員ルーマニア系であり、早速、乾杯のかけ声があがる。 外国人用のひとかかえもあるような部厚いサイン帳をワインマンが持って来て、「何か書け」と言う。レストラン開店以来、二十年分の署名と感想が記されている。ロシア語、ルーマニア語が多いのは当然だが、中国語と英語も結構ある。そのなかにひとつ日本語の署名が見つかった。「一九八六年、日本社会主義青年同盟某々」と署名がある。「オウ、日本人も来たのか。有名なビジネスマンか作家かね」と言うので、「日本のコムソモール(共産青年同盟)の人さ」と答えると、「なんだ、コムソモールかと落胆の顔、顔。この国の人々は、ロシアと社会主義には、よほど懲りているのだろう。私は、社会主義者でない日本人の初の客として、署名のうえ、一筆感想を記したことはいうまでもない。
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